たけしの忙中閑話

堤氏とホリエモン。。。

最近、経済の分野でとても気になるニュースがふたつあった。タイトルからもわかるように、ひとつは西武グループの総帥である堤義明氏の逮捕、もうひとつは現在も連日マスコミを賑わしているホリエモンこと、堀江貴史氏によるニッポン放送株買占め劇のことである。

堤氏は早稲田の大先輩でもあるし、我々が学生時代には既に大実業家であったので、そのお名前はよく存じ上げていた。当時、貧乏学生にとって「プリンスホテル」などと言えば羨望のホテルであって、いつかはそんなところに泊まってみたい、などと思っていたものだ。ただ、その当時から「あのグループの持ち株会社であるコクドは一回も税金を払ったことがないらしいぜ。」などということを聞いて、「それはいかにもおかしな話だなぁ・・」とは思っていた。世の中の右も左もわからぬ学生ではあったが、そのことに関しては「不思議だ」という感じ方ではなく、「不届きだなぁ・・・」という感じ方をしたのを覚えている。

したがって、今回のニュースを聞いての最初の感想は「案の定・・」というものに近い。別に偉そうに言う事でもないが、私企業ではあってもやはり「会社」は社会の「公器」であろう。あれだけの大事業を展開している会社が「税金を一円も納めない」などということに本当に腐心していたとするなら、それはやはり「不正義」だと言わなければならないのではないか。。。「天網恢恢、疎にして漏らさず」という言葉があるが、今回の一件からはその言葉を思い起こさざるをえない。

堤氏の亡父、康次郎氏は言うまでもなく、立志伝中の人物である。近江の貧農から身を起こし、一代で巨額の財産を築き上げた。政界でも衆議院議長にまで昇りつめている。亡くなる前の最大の心配事は、築き上げた膨大な資産の維持であったらしく、それが「家憲」や「遺言」という形で残っていると報じられている。氏に限らず「資産家」というものはきっとそういうものなのだろう(残念ながら、小生などにおいてはその心境は想像するしかないのだが・・・)。

その「家憲」を忠実に守り抜いたのが、後継者の義明氏であったわけだ。グループの総帥であり、日本を代表する経済人であったわけだから、どういう理由をつけてもマーケットを欺き続けてきた罪が減じられるものではないが、父の遺訓を忠実に守り続けてきた結果が今回の逮捕劇を招いたとするならば、いささか不憫を感じないわけではない。そういう意味ではある新聞が「本当の主犯は既に墓の中で眠っている」と表したのは、実に真相を言い得たものだと思う。

それにしても、哀れな結末である。ご本人も晩節における今回の失態をさぞ悔やんでいることだろう。世界にもその名を知られた経済人であっただけに、見ているほうにとってもとても残念なできごとだ。唯一の救いはご本人が取り調べに対し、「すべては自分の指示で行なわれたことで部下に責任はない」と言い切っていることだが、これを聞いて、氏を支えてきたような風をして実のところは支えてはこなかった会社幹部の面々もきっとやりきれない思いだったに違いない。

いわゆる「裸の王様」には常にこういう危険がつきまとう。リーダーたる者がいかに自分を厳しく律していくことが大切であるかということを痛感させられる事件である。それだけではない。「そもそも事業はいったい何のためにあるのか」という原点を考えさせられもする。かつて西郷隆盛翁は「子孫に美田を残さず」ということを言った。残したくても残すものがない者にとっては簡単に耳を通り過ぎてしまう言葉だが、そんな我々であっても「私財もある意味では公財である」ということを思わなければいけない、という風に感じるのである。

さて、一方のホリエモンこと、堀江氏の一件である。今をときめくインターネット業界の寵児の一人である堀江氏は先のプロ野球球団の買収の試みに続いて今度はメディア界の雄、フジグループへ敢然と挑戦状をつきつけた。ホリエモンという愛称は漫画のドラエモンからきているのだろう。ぽっちゃりした体型と童顔。どこへ行くのもセーターやジーンズではばからない型破りなスタイルからしてもなかなか特徴をよく捉えた愛称ではある。

あのプロ野球界の一連の騒動(実はここでもオーナーの一人である堤氏の名前が登場したのであったが)を見ていてつくづく感じた事がある。既存の大手企業の動きの緩慢さに比べて新興勢力の決断と行動がいかに素早いか、ということである。すばしっこく動き回る新興群に比して大手老舗群のほうはあたかも滅び行くマンモスを彷彿とさせた。「なんだ、いま元気がいいのは若手が率いるオーナー企業だけではないか」と感じていた。

あの時はふたつの球団が売りに出された。うち一つは流通業界を代表する企業の倒壊による身売りである。体力からすればプロ球団のひとつくらい抱えられる企業は山ほどあったろうに、名乗りをあげたのは、結局、「ライブドア」と「楽天」と「ソフトバンク」の三者だけであった。いずれもインターネットという新しいフィールドの覇者であり、老舗の企業からすればまだヨチヨチの新興企業である。年配者のあいだでは「そんな会社の名前は初めて聞いた」という人も多かっただろう。

しかし、パワーを存分に感じさせてくれたのはこれら新興御三家のリーダー達であった。その御三家の一人である堀江氏は先の球団買収には失敗したものの、今度は一転、方向を変えてメディアの株の買占めに取りかかった。「時間外取り引き」を駆使するなどの荒技に対し、応戦するフジグループも形相を変えて手段を選ばぬ戦いに出ている。争いは司法の場にも持ち込まれ、いつ決着するともわからない戦いの様子が連日ブラウン菅を賑わせているが、中でも堀江氏の露出度は群を抜いていて、この事案をめぐる賛否両論もかまびすしい。

この件については小生、正直、判断がつきかねている。決して軽軽に論評できないという感じがするからだ。経済界のお偉方たちは「カネにまかせてなんでもできるという姿勢がけしからん。企業経営とはそんなものではない」という批判を加えている。一方、巷からは「どうして買収という方法で新しい分野に進出するのがいけないのか。なぜ、あの人だけがいつもいじめられるのか。」という同情論も聞こえてくる。ひとつの企業の買収劇がここまで派手にマスコミの材料になったケースも珍しいだろう。そこに大きな議論が巻き起こっているということは決して悪いことではない。


この段階で敢えて思うところを言えば、ホリエモンにはしばらく頑張ってもらいたい、と思う。なぜならば、そのことによって旧態依然たる経済界に活を入れて欲しい、と思うからである。人も企業もチャレンジャーやライバルがいてこそ、努力もし、成長もする。正当なチャレンジであれば、大いに歓迎すべきであり、非難するには当たらない。問題はホリエモンの主張にいまいち「正統性」を感じないことであるが、だからと言って応戦する側もあまり誉められたものではない。放送界はここへきて突然、「放送業の意義」や「放送人の誇り」とやらを持ち出してきているが、果たしてそんなものがこれまで立派にあったのかしらん、という思いがするのは小生だけであろうか。。。。

経済界の反応もわからないではない。たしかにホリエモンは小生たちから見てもその立ち居振る舞いたるやいささか無礼に感じられるからである。オジサマ達がそれを気に入らないのも不思議ではない。しかし、ここまでのことをやらかす以上、氏は氏で企業家としての何かしらの「抱負経綸」を持っているのだろう。目下のところ、それをストレートに出さないことで損をしている格好だが、もっと率直にその思いを語ればよい。


新興企業が短時間で業務を拡大していくためにはこういった企業買収による方法が有効であることは論を待たない。マーケットに株を公開しているということは、そこから直接に資金を広く集めることができるというメリットがある一方で、経営陣は常に新たに参入してくる株主の批判に晒されるリスクを負うことになる。場合によっては経営権を脅かされたり、買収の憂き目に遭う可能性だってある。しかし、それが「マーケット」である。だからこそグループによる株式の持ち合いや創業者の一族による株の持ち合いによってそのリスクを遮断しようということが当たり前のようにこれまで行なわれてきたのだろう。

「合法」であればむろん問題はない。しかし、合法性が疑わしい手段や偏見によってなりふりかまわぬ対抗手段が取られるとするならば、本来、マーケットが期待しているところの活発な競争による経済発展が阻害されることになる。チャレンジャーたちがいつもその種の手段や偏見によって不当に撃退されてしまうのであっては、マーケットは次第に活力を失い、本来の機能を果たし得なくなってしまう。そのように機能不全に陥ってしまったマーケットには時に過激ではあっても「刺激」が必要である。ホリエモンの投げた「石」はそういう意味で大きく波紋を広げているように思うのだ。


この二つの案件の間に別に脈絡があるわけではない。しかし、ここのところ続いている「老舗」の哀れなまでの倒壊劇と「新興勢力」の鮮やかなまでの躍進劇を見比べた時、日本の社会や経済が大きな曲がり角に来ているということを実感する。

一言で言えば「老化」と「志の低下」である。人も企業も老いればいきおい保守的になる。人の場合は挑戦する時間がなくなっていくのだから無理もないことだが、企業行動がそうであっては経済の進歩はない。「保守」が「保身」に成り下がればなおさらその弊害は大きい。リスクをとってチャレンジする「精神」、そのチャレンジを支える「志」がなかりせば、この国は次第に衰退へと向かっていくしかない。したがって、志高きチャレンジャー達には常に門戸は開放されていなければならないのだと思う。もちろん、「開放」は「競争」を産む。しかし、その「競争」を通じてこそ全体にとっての「最適解」が導かれる、と思うのである。


自分の主張は「マーケット信奉が強過ぎる」と時に指摘されることがある。しかし、私は決していわゆる「市場至上主義」を信奉しているわけではない。そうではなく、古めかしく言えば単に「天を信じ、民を信じたい」と思っているのである。一人一人の思いは様々であっても、総体としての国民は最終的には全体の利益に照らして正しい方向を選び取ってくれると思っているからである。政治であれ、経済であれ、それは同じことだと思う。この世の中は大袈裟に言えば宇宙の法則によって、即ち、「天意」によって日に日に進歩していく。人々の心の中にもいつもその「願い」がある。その「願い」の発露が自由に交錯し合う「場」がいつも適切に用意されていなければならない、と思っているのである。

・・・・あらあら、思いつくままに書いてきたら、また迷路に迷い込みそうになってきたので、ここらで「ペン」ならぬ「キーボード」から手を離したいと思う。軽く書き出したつもりがいつになく固い「閑話」となってしまった(笑)。あしからず、お許しあれ。

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