たけしの忙中閑話

国家の品格

「閑話」としてはいささか仰々しいタイトルだとお思いになるだろう。そう、これは本のタイトルである。著名な数学者でもある藤原正彦氏が書かれたベストセラーだ。なんとなく小生の食指が動く題でもあったので、発売当初、さっそく購入して既に読んではいる。「いい本だ」と思った記憶はあるが、いつのまにかその中身は忘れてしまっていた。

しかし、過日、とある議員集団の勉強会でその藤原氏の講演を拝聴する機会があったのだ。実際にご本人から直接にお話をうかがってみて、まさに「目からうろこが落ちる」思いがしたので、その時の印象を伝えたいばかりにこうやってキーボードを叩いているという次第である。

藤原氏は「つまるところ日本は国柄だけの国家なのだ」と言う。僅かな国土。しかもその7割は森林で居住に適さない。資源はほとんどない。あるのは「人間力」だけ。しかし、数千年の歴史が育んできた世界でも特異な文化と国柄を持っている。それこそが日本の原動力だった。それがここへきて急速に破壊されてきている、というのだ。

そして「その破壊者は経済人であり、マスコミであり、そして何よりもそれに浮薄にも追従している国民そのものだ」と藤原氏は続ける。いささか過激な表現だなぁ、、、と思いつつも耳を傾けていたところ、そのあとにさらに衝撃的な発言が飛び出した。

「いいですか。ですから、政治家の皆さんにはこれだけはお願いしたい!絶対に国民の声には耳を貸さないでいただきたい!国民の言うことだけは聞いてはいけません!」。。。これには仰天した。間違いなく逆説的表現であるとは思ったものの、これほどまでに突き抜けな言いぶりには出会ったことがない。氏は氏なりに、ふがいない政治に喝を入れたかったのであろう。が、それにしても激しい。。。

かねてより「民の声は天の声である」というのが小生の信条である。むろん、「国民の意見が常に正しいとは限らない」とは了解しているが、しかしその一方で、「総体としての国民」というものはいつの世も「賢」なるものであり、紆余曲折はあっても最終的には間違いの無い判断を下すものだということも強く信じている。また、そう構えていなければ民主主義というものも成り立たないと思っている。

その思いからすれば藤原氏の発言は一見、「暴論」に聞こえる。もちろん氏がその言葉どうりのことを言おうとしたのではないということは話を聞いた途端に了解したが、果たしてこれをどう呑み込めばいいものかとしばし考えあぐねた。しかし、藤原氏はそののちにこう言ったのである。「政治家にとって大事なことは国民の心の奥底にあるものを洞察すること、忖度することなのです」と。それを聞いた瞬間、小生の不確かな「思案」は確固たる「確信」へと変わった。

「国民の心の奥底にあるもの」とは何か。それはこの国のかけがえのない「国柄」に対する密やかな「自信」であり、「誇り」であるに違いない。現代日本人の心の表層部分はたしかに流行や風潮に侵食されてはいる。しかし、心中奥深くに迫っていけばそこには歴史と伝統に裏打ちされた不易なる価値の体系が眠っているはずだ。そして、その地下資源を掘り起こすことができないでいるのがまさしく「現代日本」なのだ。

言い古された表現ではあるものの、現代の日本には「欲望の民主主義」が蔓延しているかに見える。経済も政治も「現世ご利益」ばかりを唱え、マスコミやコマーシャリズムは朝から晩までそれを煽り続ける。その結果、「正しいか正しくないか」ではなく、「損か得か」が最有力の価値基準として増幅され続けている。とりわけこの数年間は市場原理、すなわち「マーケット」こそがこの世の至上の審判者であるかのごとき風潮が吹き荒れた。かく言う小生とてそのお先棒を担いだことがなかったとは言えない。

藤原氏はそういった現状を憂うがゆえに激しく警鐘を鳴らしている。「世の中は市場原理だけでは救われない。それだったらマーケットだけがあればいいのであって政治なんか要らない。惻隠の情によってつながれなければ人の世とは言えない。卑怯を憎む心が消えうせてしまっては倫理道徳なぞ成り立たない」。まさしくそのとおりである。

工業品の規格ならば「世界基準」こそが正しく、それに従うよりはない。しかし、人の世の中を動かしていくモノサシは日本固有のものであっていい。と言うよりも、本来、そうでなければ日本が日本でなくなる。それが「国柄」というものだ。

一時期、激しく糾弾され、変更を余儀なくされた「日本型経営」もその中のひとつだろう。「終身雇用」、「年功序列」、「株式の持ち合い」。いずれも海外からは「異常」に見えたろう。しかし、これらも元をたどれば「国柄」から出たものである。けれどもそのすべてが「悪」だとされ、次々と突き崩されていった。その結果、巷にはフリーターがあふれ、勤労者のかなりの部分が派遣社員となり、人々の「生活」そのものはむしろ不安定さを増してしまっている。

教育にしてしかり。長きにわたって世界の最高水準にあった日本の教育はいま地に堕ちつつある。氏は「今の教育はこどもにおもね過ぎているからだ」と言う。だから、学力が下がり、問題行動もイジメもなくならない。「厳しさが足りなさ過ぎる」と言うのだ。氏は最近とみに顕著な「理数科離れ」についても言及し、「その原因は教師の力不足などではなく、生徒の我慢不足にこそある」とした。理数科を学ぶにあたって最も必要なのは実は「忍耐力」だというのだ。したがって、厳しい教育によってこどもの忍耐力を鍛えずして理数科離れを食い止めることなどできない。。。。なるほど、すっと腑に落ちる話ではないか。

「教育とは大人が深く深く考えて子どもに必要なものを与えること」、「大人が正しいと信じる価値観はうむを言わさず叩き込まねばならない」、「駄目なものは駄目!と押し付けられてこそ、こどもはやがてそれを踏み台にして新しい価値を創造するようになる」、、、ああ、我が身を振り返ってまったくそのとおりだったではないか。現代の親も教師もどうしてこうも弱くなってしまったのか。。。

いや、他人事のように嘆いている場合ではないな。その弱っちぃ「親」や「教師」の姿はそのまま今の「政治家」の姿に投影されている。これは自戒の念をこめて本当にそう思う。いまの政治はおしなべて国民の「賢」にではなく「愚」にこそ訴えている。「愚」に訴え続けていればやがては当然のごとく「衆愚の政治」を招く。いまや国民ばかりではなく、政治家も「マス」の一部へと自ら成り下がった。だから「マスコミ」にいいように踊らされるのだ。連日連夜、その発する号令にしたがって文字通り右へ左へと「右往左往」し続けている。何故か。。。。そう、おもねているからだ。

この悪循環を止めるのにはまずは政治の側が確固たる決意を持つ以外にない。自らが襟を正し、「愚」にではなく「賢」にこそ訴える政治を確立することだ。国民の「愚」におもねず、その「賢」にこそ訴え、かつ従う。国民の心の奥底に眠っている豊かな地下水脈を掘り当て、そして汲み上げる。それこそが政治の本来の役割であり、力なのだろう。藤原氏の「警告」はまさしくそのことを言っていると私は受け取った。

ここまで書いてきてふと思い出したことがある。小生がまだ当選一回の青二才の頃、ある著名な経営者からホテルの喫茶室に呼び出されたことがあった。お名前は控えるが徒手空拳にして一代で財を成し、当時、その余勢を駆って政治の世界にも歩を進めようとしていた御仁だった。報道か何かを通じて小生に興味を持ってくれたらしく、「どうしても一度お会いしたい」ということだったので、「こんな若造に、、ありがたいことだ」と思って出かけていった。

その人が開口一番、小生にこう聞いた。「岩屋さん、貴方は国民が政治に何を求めていると思いますか」。。。。出会いがしらのしかも実に重たい質問にたじたじとした小生はようやくにしてこう答えた。「それはやはりぃ、、、そのぉ、、、豊かで安心できる生活ではないでしょうかぁ、、、」。

次の瞬間だ、周囲の人が振り返るほどの怒声が響いた。「なんと!見込みがあるかと思ったが実にがっかりした。岩屋さん、貴方は間違っている。国民は貴方が思っている以上に偉いのですよ。自分のことばかりじゃなく、ちゃんと全体のことを考えている。いいですか。国民は立派な国にして欲しいと思っているのです。そのために道理にかなった立派な政治をやって欲しいと思っているんですよ!」と。。。いまなお忘れられない言葉である。

私はあの時のこの御仁の言葉は表現こそ正反対であるものの、ここに紹介した藤原氏の言葉となんら変わるところがないと、今、思っている。

「国民を信じればこそ、国民におもねない」。

それこそが「国家の品格」を取り戻す道なのだと、あらためて思い知らされた講演だった。
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