たけしの忙中閑話

聖火リレー

なんとも前代未聞のことではないか。北京オリンピックのための聖火リレーは至る所で混乱を巻き起こしながら進んでいる。とある新聞社が「これでは聖火ではなくて火種と呼んだほうがいいのではないか」と書いていたが、そのとおりだという観がしてならない。

パリでの騒動に慌てた中国当局は今度は留学生などを大挙動員して聖火応援団を編成し、聖火が見えなくなるくらいまでに中国国旗をはためかせる戦法に出た。かつての日本がそうであったように、まさに「国威発揚」の絶好の機会であるオリンピックをなんとしても成功させたいという思いはよくわかる。しかし、だからといってこの種の示威行動も実に大人気ないではないか。

言うまでもなく、政治は政治、スポーツはスポーツである。聖火リレーの機会をとらまえて抗議行動に出るという仕業にもむろん感心はしない。しかし、その愚行をさらに刺激するかのように対抗してみせるというのもいかがなものか。そのせいで、中国当局から派遣された護衛や現地の警察官に取り巻かれて走るランナーの顔はみんな一様に引きつってしまっている。それを遠巻きにして見ている市民も「怖いもの見たさ」が先に立ってもはや世紀の祭典を祝う気持ちになれていやしない。滑稽を通り越して誠に無残な光景である。

ともあれ、この間の日本政府の一連の対応はすこぶる冷静でよかった、とは思う。中国首脳の来日を控えて気を使い過ぎているという批判も一部にはあろう。しかし、そもそもがスポーツの祭典だ。そこに政治を持ち込むことを避けるべきは当然である。外交問題は外交問題として毅然と構えて言うべきことは言ったらいい。しかし、彼らが待ちに待った世紀の祭典は隣国としてしっかり応援してやったらいい。そう構えるのが本来、大人の国のあるべき態度だと思う。その上で敢えて言うならば、中国当局も今回の騒動を通じて多くを考え、学んで欲しいと思う。

今回、各地で巻き起こっている反発はなにもチベット問題だけが原因ではなかろう。急速に成長を続ける中国経済は世界にとって「天恵」であると同時に、その不透明なルールに基づく膨張は「脅威」でもあると受けとめられている。13億人の人口を擁するその政治体制はいまだに一党独裁である。その軍拡の規模とスピードは周辺諸国をして不安がらせるに十分である。援助国になったはいいが、その方法は国際ルールとは相当にかけ離れたものであって、方々で各種の問題を惹起している。そういったもろもろに対する反感、懸念、あるいは不信といったものが今回の騒動の背景にあるに違いないと感じているからだ。

かつて我が国は最後の「帝国主義国家」としてアジアに跋扈した。気がついた時には、かつて同じことをやっていたはずの列強に取り囲まれ、その窮地を脱すべく、ついに勝ち目のない戦いに突き進んでいった。世界の潮目の変わりを読めなかったということか。いま流行の言葉を使えば「KY(空気が読めない)」ということだったかもしれぬ。かつてその日本の軍靴に蹂躙されたはずの中国がまさか同じ轍を踏むまいとは思うが、国内に偏狭なナショナリズムが蔓延し、しかもそれを糾す勢力が見当たらないとするならば、その危険性がまったくないとは言えない。

列国の侵略にさらされて以降、長い長い停滞を経験した後で、中国はいま久方ぶりに歴史の表舞台に勇躍、登場しつつある。その「高揚」した気分はよくわかる。邪魔するものは蹴散らしてでも、という心境だろう。しかし、そこにこそ「落とし穴」が待っているのだということを、ぜひとも苦い経験を持つ友人として忠告したいという思いにかられてしまう。

ある人がこういうことを言っていた。「かつて、非民主主義国がオリンピックをやったあとにどうなったかを知ってるだろうか。聖火リレーはもともとヒットラーが国威発揚のために考案したもので、ベルリンオリンピックの時に初めて行なわれたのだったが、その数年後に第三帝国は崩壊している。モスクワでオリンピックが行なわれたあと、その9年後には旧ソ連が解体されている。さて、北京オリンピックのあとは、、、、」と。

なにも中国の混乱を望んでいるわけではない。それは「隣人」たる我々にとってなんとしても避けるべきシナリオだ。しかし、中国が現在のままの姿でその勢力を拡張していくことには少なからぬ危惧を持たざるをえないことも事実だ。もちろん他国の内政に干渉するつもりなどない。要はかれらが自ら変わっていく以外にない。世界でもっとも多い人口を抱え、豊かになったとはいえ、今なお数千万人に近い最貧層を抱えた国での民主主義の発展が容易でないこともわかる。しかし、なのである。

「普遍的な価値」という言葉を簡単には使いたくはない。とはいえ、基本的な人権の尊重、言論の自由、民主主義、法による支配、といった、人類が数千年の苦闘を通じて徐々に獲得してきたこれらの諸価値について、今や、世界の中で明らかに「大国」としての地位を占めつつあるこの国が十分な関心を払ってくれないようでは困るのである。

このたびの「聖火リレー」はさまざまな波紋を世界中に巻き起こしてもうじき終わろうとしている。残念なことではあったが、中国自身がこれによって感じ取ったことも少なくないだろう。小生はそこに期待したいと思う。本番では世界中からアスリートたちはもちろんのこと、たくさんの人達がかの地を訪れる。人や情報が大量に流入することによって、やがてはそれが大きな化学変化を引き起こすことにつながるだろう。多くの中国人がセルフイメージと他者のそれとの違いを知って何かを考え始めるだろう。その先に真に望ましい隣人としての新生中国が誕生することを願いたいと思う。

そういう意味で言えば、かのギリシャの地にて点火された「聖火」によって世界中に運び込まれるべきなのは、単に「スポーツ礼賛」の精神ばかりなのではなく、プラトンが「ソクラテスの弁明」をもって語らしめた精神をも包含しているのだ、と思ってみたりしている。
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