たけしの忙中閑話

ジュリー

「タイガース」と言えば、僕らの世代で知らない者はいない。最初に言っておくが、「阪神タイガース」ではない。「ジュリー」こと、沢田研二さんがいたあのタイガースのことである。タイガースはまさに日本のグループサウンズブームの火付け役的存在であり、ジュリーはこのバンドのボーカリストで、文字通り、その時代を代表する大スターだった。

僕がそのタイガースのことを知ったのは小学生の頃である。その頃、我が家にはお手伝いさんがいた。親子三世代、9人が暮らしていた大家族だったし、祖母や母もその頃は病弱だったので、祖父の出身地の田舎の縁者の中から高校を出たばかりの女性が住み込みで家事全般の手伝いに来てくれていたのだ。名前は「さえちゃん」といった。

そのさえちゃんの部屋はふすまを一枚隔てて僕の部屋の隣だった。さえちゃんの出身地、つまりは祖父の郷里はいまでこそ炭酸温泉が有名になって大分県を代表する観光地のひとつになってはいるものの、その頃はというと、まさしく「寒村」そのものであった。というのも、一度、祖父に連れられてご先祖様の墓参りに行ったことがあり、子ども心に「なんという田舎なのか」と嘆息した覚えがあって、以来、ずっとそういう印象を持っていたのだ。

その「寒村」からさえちゃんは我が家にやってきた。体格のいい人だったが、いかにも垢抜けない感じで、「りんごっぺ」というのか、いつも頬が赤らんでいたことを覚えている。小さい声でモゴモゴとものを言うので、「はっきりものを言わないと駄目よ!」と時折、祖母に怒られたりしていたが、僕はそんな時のさえちゃんがとても可哀想に思えて、密かに同情していた。なにしろ、初めて親元を離れたのだ。たとえ遠い縁戚とはいえ、見知らぬ人の家に急に飛び込んで慣れない奉公をするというのはとても辛いことに違いないと想像された。さえちゃんにも楽しいこと、嬉しいことがあればいいのにな、といつもそんな風に思っていた。

そのさえちゃんがある日、レコードプレイヤーを買ってきた。その頃、我が家には応接間にステレオなるものがあったのだが、そんなところで勝手に好きな音楽を聞くには遠慮があったろうし、一日の仕事を終えて一人、自分の部屋に戻った時の楽しみのためにと買ってきたのだと思う。シングル盤を乗せて針を置くと機会本体が見えなくなってしまうほどの小さな小さなプレイヤーだった。子どもの自分が見ても、当時、売られているものとしてはもっとも安価なものに見えたけれども、おそらく、さえちゃんにとっては自分がもらったお給金で初めて買った宝物だったろう。

それ以来、さえちゃんのその「宝物」から、今まで聞いたことのないような音楽が聞こえてくるようになった。ふすまの向こうから聞こえてくるその歌声に僕は知らず知らずにひきつけられた。どれもリズム感あふれる曲調だったし、よく通る甘ったるいその声になんとなく心躍る気分がした。そうやってしばらくの間はあたかも盗み聞きをするようにしていたのだが、次第にますます気になってきて、ある日、どうしてもその正体が知りたくなってさえちゃんの部屋をノックした。

「あら、たけしちゃん、ごめんね。うるさかった?」 
「ううん。さえちゃん、今かけちょんレコード、なんちいう人?」
「タイガースっちいうんよ。たけしちゃん、知らんの?いま、すごく流行っちょんのよ。」
「いんや、僕知らん。レコード見せて。」
「ほら、この真ん中におるひとがジュリーっちいうんよ。格好いいやろ。うち、大好きなんよ。」
「ふうーん、ジュリーかぁ。でも日本人やろ、こん人。なんでジュリーち言うん?」
「うちもなんでか知らんわぁ。。こっちの人がサリー、こっちがトッポち言うんで。フフフ」

みんな長髪で派手な軍服みたいな衣装に身を包んでいた。「ハハァーン。これはいつかテレビで見たビートルズとかいうのを真似してる人たちに違いない」と思ったりしたのだが、それよりも、「フフフ」と言ってタイガースのメンバーを紹介してくれた時のさえちゃんの顔はそれまで見たことがないくらいに嬉しそうで幸せそうで、そのことのほうが強く印象に残った。

以来、毎晩のようにさえちゃんの部屋からはタイガースの曲、つまりはジュリーの歌声が聞こえてきた。僕のほうもだんだん楽しみになってきて、二人で新曲の「講評」などし合ったものだった。だから、その頃のタイガースの曲は「B面」のマイナーな曲も含めてそのほとんどを覚えている。いや、さえちゃんのプレイヤーから聞こえてくる曲しか知る由もないのであったから、さえちゃんの好みの順番に曲を覚えていたというほうが事実に近い。ちなみにさえちゃんが数限りなく繰り返して聞いていた曲は、「落葉の物語」といった。あまりヒットしなかった曲であったにもかかわらず、何十年たった今でもすぐに歌える。僕も今でも「名曲」だと思っている。

それから二年ほどしてさえちゃんは無事に約束の期間を終えて我が家を去っていった。もちろん、その時には僅かばかりの家財道具と一緒にあのレコードプレイヤー、そして、手さげ袋にいっぱい詰まったタイガースのレコードを大事そうに抱えていった。

僕はさえちゃんがいなくなることは寂しかったが、さえちゃんにとっての「寂しい時期」が終わったことには内心ほっとしていた。そして、そのさえちゃんの寂しい日々を慰めてくれていたタイガースやジュリーに「ありがとう」と言いたい気持ちが自然にわいてきた。さえちゃんにとってのジュリーという存在は、きっと、いつの日か目の前に現れて欲しい「白馬の王子様」だったろう。郷里を想い、両親や兄弟を思って涙する時のなによりの慰めだったろう。辛いことがあっても、それでも明日を信じてがんばろうと奮い立つ時の最大の応援団だったろう。さえちゃんはその後、さえちゃんだけの「ジュリー」とめぐり合い、子宝にも恵まれて幸せな結婚生活を送っていると聞いた。今ではお会いすることもなくなったが、僕にとってのジュリーはそういうわけで、さえちゃんの思い出とは切っても切り離せない。

その後もタイガースはヒット街道をばく進したが、やがて解散し、ジュリーは独立してソロ歌手となった。僕は中学生になって少しジュリーからは遠ざかったが、その頃にはもう妹が大のジュリーファンに成長していた。時折、妹がかじりついているテレビの歌番組に登場するジュリーはいつも奇抜な衣装と斬新な曲風で歌謡界のパイオニアを演じ続け、世代を越えて多くの女性ファンをひきつけた。やはり、この人には「華」がある。グループサウンズ時代に一世を風靡した他のシンガー達がいつのまにかいなくなったのに、この人だけが生き延び続けたのにはそれなりの理由があるからだ。

しかし、時は流れ、ジュリーはだんだん歌わなくなった。時折、役者としてテレビや舞台に出ていたことは知っていたが、歌わないジュリーは僕らにとってはジュリーではない。かのミック・ジャガーだって還暦を過ぎていまなおステージを駆け回って頑張っているというのに、「日本のロッカーなんてやっぱりだらしねぇな」なんて、もう歌わなくなった太ったジュリーを観るたびに失敬ながらそう思ったものだ。

ところが、である。先日、東京ドームで開催された「ジュリー祭り」なるものに「行ってみないか」と友人から誘われたのだ。当初、あまり気乗りはしなかったのだが、もう歌う姿を見ることもないかもしれないと思うとやはり行ってみたくなった。だが、行って見て小生は仰天した。そして、自らの不明を恥じた。ちょうど還暦を迎えたはずの氏がなんと6時間半にわたってぶっつづけに歌い続けたのだ。しかも、始終、ステージを駆け回り、跳ね回りながらである。その数、なんと80曲。トークはほとんどない。曲が終わればすぐに次のイントロが始まるのだが、激しい曲を続けても少しも声質が変わることがない。ジュリー、恐るべし。いやはや、誠に恐れ入った。

小生が会場にいれたのはそのうち、正味2時間ほどだったのだが、その間だけでもドームを満席にした往年の「少女」たちはまさしくタイムスリップしているように見えた。よい年恰好のおば様たちが、連れてきたご主人や娘達を尻目にいっせいに立ち上がって当時のふりつけを恥じらいもなく演じていた。バラードに涙していた人もたくさんいた。中には失神して救急車で運ばれた人もいたのだという。さえちゃんもきっと来たかっただろうな。いや、この中に「さえちゃん」がいっぱいいるに違いない。そんなことを思った。

次の日のスポーツ新聞によると、誰からも「無謀だ」と言われた前人未到のロングコンサートを終えたジュリーは「まるで夢の中にいるようだった。皆さんが僕を夢の中へ連れて行ってくれた。」と言ったのだという。きっと氏はまぎれもなくそう感じたろう。でも、それは当然のことだったろう。長きにわたってこれだけ多くの「さえちゃん」達に夢を与え続けたのだから。それを知っている神様がご褒美として氏を夢の中へいざなってくれたに違いない。

とても名残惜しかったが、会場に響き渡るジュリーの歌声を聞きながら僕はドームを離れた。タクシーに乗ると運転手さんが「お客さん、ジュリーへ行ったんですか。6時間やるんですって。凄いですねぇ、あの人。私より年上ですよ」と言った。「そうよ。俺らももっと頑張らんとね。」と僕は応えた。

夢を与え続けられる人こそが、いい夢を見る。還暦のジュリーはそのことを教えてくれた。
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