たけしの忙中閑話

クラッシック

最近、クラッシック音楽をよく聴くようになった。以前はもっぱらロックやジャズである。クラッシックと言えば、小学校や中学校の音楽の時間に聞かされたものくらいしか知らないでいた自分がどうしてそのようなことになったかと言えば、おそらくは10年前から毎年、地元の別府市で開催されてきた「アルゲリッチ音楽祭」の影響なのだと思う。

正直言えば、それまでマルタ・アルゲリッチさんという人の名前も知らなかった。アルゼンチン出身のこの世界的なピアニストのことを知らなかったというのは、言わせる人に言わせればかなり恥ずかしいことだったのかもしれぬ。しかし、知らなかったものは知らなかったのだから仕方がない。ところが、行って聴いてみると、やはり「名人技」というのはたとえ素人にも伝わってくるもので、瞬くうちにその美技、妙技に惹き込まれてしまい、「初体験」とも言うべき甘美なひと時を味わった。その時に大袈裟に言えば「開眼させられた」というわけだ。

以来、クラッシックを聴くことが苦でなくなった。いや、苦でなくなったというより、好んで聴くようになった。ここのところ、たまにフラリとレコード屋さん(最近はこういう風には言わないのだろうが)に立ち寄って買ってくるのはほとんどがクラッシック、ということになっている。

もちろん、予備知識など持ち合わせていないので、いわゆる「名盤コーナー」から適当に選ぶようにしているのだが、そういう時に脳裏に浮かんでくるのは小学校の音楽教室の壁にずらりと並んで掲げられていた、あの派手なかつらをかぶったバッハだのハイドンだのといった巨匠たちの顔である。それからすると、義務教育課程において行なわれる最低限の教養としての「音楽」の時間は決して無駄ではなかったのだとも思える。

演奏家で選ぶとなると、ますます知識がないので右往左往してしまうのだが、その場合はまずアルゲリッチさんご本人が演奏されたものを選ぶようにしている。なんといっても毎年、実際の演奏を目の当たりにしているのだ。その選択には自信を持って臨める。次には、アルゲリッチ音楽祭には毎回必ず参加しておられる、チェリストのミッシャ・マイスキーさんのものだ。チェロと言えば、皇太子殿下が嗜んでおられるのを存じているのと、あまりにも有名なヨー・ヨーマさん(そういえばオバマ大統領の就任式で演奏されていたばかり!)のことを知っている程度なのだが、マイスキーさんのものなら自然に手に取れる。そんなところから始めて徐々に他の作曲家や演奏家に派生させていっている。

そんなこんなで、今、手持ちのクラッシック盤は全部で50枚ほどになった。クラッシック音楽の膨大なる蓄積に比すれば、象の尻尾の産毛の一本を触ってみた程度に過ぎない。いや、それにも遠く及ばない。したがって何もここで薀蓄を傾ける気などは毛頭ない。そうではなくて、こうなってみてつくづく思うのは、どうして今までこれほど豊潤な世界を知らないままできたのか、ということだ。

これまで自室で本を読んだりものを書いたりする時はほとんどの場合、ロックやジャズをかけていた。家人から「よくそんなうるさい中で勉強できるわね」と言われたものだ。ところが、クラッシックを好んで聴くようになって以来、たまにロックやジャズをかけると自分でも「うるさいな」という感じになって気分が落ち着かなくなってくる。思うにあの「リズム」が原因なのだろう。ロックやジャズというジャンルにあってはリズムセクションこそが音楽を成す骨格と言っていい。小生、面白半分にドラムを叩くことがあるので、余計にそう思う。その「鼓動」を感じることこそが、この種の音楽を聴くときの醍醐味なのではあるが、クラッシックとなるとちょっと様子が違う。

もちろん、クラッシックも音楽である以上、当然にリズムを擁している。しかし、ロックやジャズのように、それが太鼓などの独立した打楽器音によって一定に刻まれているというわけではない。なんと表現していいのかよくわからぬが、「リズムが音の中に内包されている」とでも言っておこうか、その「リズムを内包した音」が自由自在に飛翔しながら旋律を奏で、耳に障るわけでもなく、無理に身体を揺さぶるわけでもなく、全身を柔らかく包み込むといったような風である。まぁ、クラッシック音楽を齧ったばかりの輩がこんな御託をならべても笑止に過ぎぬが、ともあれ、自分にはそういう風に感じられる。で、わかったことは、これがすこぶる心地いい、ということだ。

先頃、小泉元総理が「私の音楽遍歴」というタイトルの、政治家の著作としてはかなり珍しい類の本を出されたのだが、その中に「BGMとしてはクラッシックが最高だ」というくだりがあって、最初は「ほんまかいな」と疑っていたものの、最近では「まったくその通りだ」と諒解するようになった。

手持ちの50枚の中でも一番、好んで聴くのが「バッハ」だ。言うまでもなくバロックの巨匠であるが、特にこの人の「無伴奏」ものがいい。バイオリンもチェロもいい。ピアノのパルティータもいい。特に、「無伴奏チェロ」はチェリストにとっての「バイブル」のようなものらしいが、なるほど聴いているとなんとなく神々しい気分が漂ってくる。マイスキーさんやヨー・ヨーマさんのもの、その他、著名な演奏家によるものなどを見つけてきては、同じ曲を聴き比べたりして楽しんでいる。

古典(クラッシック)の良いところは、音楽に限らず、数百年、ときには数千年の時を経て、いにしえの偉人たちと向き合うことができるところにある。本も新刊物よりは努めて古典を読めという。それも、繰り返し繰り返し読む。しばらくの間は「読む」というより「読まされる」ことになって簡単には真髄に辿り付けぬのであるが、人生の経験を積み重ねることによって徐々にその内容が感得されるようになってくる。それが幾百年の時を経て決して朽ちることの無い「古典」というものが持っている妙味なのだろう。音楽であれ、文学であれ、彫刻であれ、形がどうあれ、そこに息づいているものは創造者たちの人生を燃焼せしめた魂であって、その命は時空を越えて永遠である。

自分にはまだ「バッハ」は聴けていない。繰り返し繰り返し聴いてみるほかない。むろん、「真髄」とまでは望まない。そのうち、子どもの頃に肖像画で見たあのバッハのかつらに少し触ってみることができたらと思っている。

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