たけしの忙中閑話

エロティックな政治

新井将敬という政治家がいた。紹介の必要はあるまい。颯爽とした容姿と鮮やかな弁舌で鮮烈な印象を残し、嵐が通り過ぎるようにして政治の舞台を去っていった政治家である。政治改革の旗手の一人として一世を風靡した氏が最終的に自らの政治資金問題が原因で退路を絶たざるをえなかったことは、本人にとってさぞ不本意だったことだろう。

その氏と短い間ではあったが、小生も政治改革の運動を通じて親交を持った。思い返すに実に魅力的な政治家だったと思う。特にひきつけられたのはその言葉遣いだ。明らかに普通の政治家のそれとは違っていた。常に鋭角的に発せられていた氏の言葉には強い「言霊」を感じた。ひとつひとつの言葉の背景に豊富な教養とよく練られた思考が感じられたし、それらの言葉は政治という営みに対する本質的な問いかけからいつも発せられているようにも感じていた。

その氏が今から十数年も前に小生に届けてくれた著書が「エロティックな政治」という本だ。表紙の裏にサインを入れてくれていたので、大事に取っていて、折に触れて読み返している。常になにかしらの言葉を吐き続けなければならない生活の中で、時に「言葉に詰まる」思いをすることがある。しゃべれないのではない。ありきたりの言葉しか思い浮かばないのだ。氏の著書はそういった時にモノを考えるヒントを与えてくれる。タイトルばかりでなく、政治家の書いた本の中ではすこぶる異色な内容であるが、だからして名著である、と小生は思っている。

この本がなぜ「エロティックな政治」という奇抜なタイトルを冠しているかは、読んでもらえばわかることなのだが、そのわけは「恋愛は密室の政治であり、政治は公の恋愛である」という、この本に登場する氏の言葉に象徴されている。それはいったい何を意味しているのか。。。

この著書の中に「存在の耐えられない軽さ」という本の話が出てくる。ソ連支配下のチェコを生きたミラン・クンデラという人が書いた本で、90年代に出版された時に世界的に脚光を浴びた本だ。

要は「恋愛小説」なのだが、決してありきたりのラブロマンスなどではない。「政治と人生」というものを考えさせられる本でもある。圧政の下で、すべての言葉、すべての事柄が「政治化」されていく中、人間に残る最後の砦、最後の言葉は、実は恋愛という裸の男と女の原初の形の中にしかないと信じ、そのようにして生きた主人公のことを書いた本である。

主人公のトマーシュは圧政下のチェコに生きる医師である。有能な医師ではあるが、一方で「女漁り」をやめることができず、次から次へと女性と関係していく。そういう性癖を持ちながら、決して体制側には組しないという反骨精神も併せ持っていて、それがゆえにとうとう医師をやめざるをえなくなり、「窓拭き」という職業に身を落としてしまう。

いや、トマーシュの心情を「反骨」と言ってしまうのは決して正確ではないだろう。彼は「政治化された世界」に対抗できるのは、唯一、「愛によって築かれた帝国」でしかないと考えていた。トマーシュは政治化された世界に生きる人々の、政治化された行為をうさんくさく思っている。すべての人間を同種に扱おうとする政治的プロパガンダをいっさい信用していない。自分にとって唯一の真実は一回限りの人生を生きる生身の男と女のすぐれて個性的な交わりの中にこそあると感じている。

そのトマーシュがある日の出張先で、「偶然」がいくつか重なって出会うことになったテレザという名前の女性と関係を持つことになる。結論を言えば、このテレザがトマーシュにとっての最後の女となっていくのだが、テレザと出会ったことによってトマーシュの生活は以前に比べてずいぶんと不自由で窮屈なものになっていく。

医師をやめたのは体制に順応できないからであったが、それ以上にテレザと暮らすことを選び取ったからでもあった。「窓拭き」となったトマーシュは決して女漁りをやめはしないが、テレザはたった一回の例外を除いて「貞操」を貫いて彼に寄り添っていく。物語は決してハッピーエンドではない。二人は最後に「政治」の作用が決して及ぶことのない片田舎に引きこもって寂しく終わっていくのだが、著者はそういう風にして生きた男がいたということを淡々と書いているだけだ。

トマーシュはたしかに世間的には「転落」した。存在としては見るからに「軽い」ものになった。しかし、いったい、何が軽くて何が重いのであろう。「輪廻」や「永劫回帰」というのは信じたい話ではあるけれども決して真実ではない。人生はこの世にたった一度きりだ。そして、人生に「実験」はない。誰もが一度きりの人生をその都度、取り返しのつかない選択をしながら生きている。「偶然」によって出会った女性と築いた「愛の帝国」は、トマーシュにとって、たった一度の人生にたった一度きりのまぎれもない「真実」である。いっさいが強制的に政治化され、虚飾に彩られた世界にいやいや迎合していく人生と比べて果たしてどちらが重く、どちらが軽いのであろうか。。。

新井氏はなにもこの物語に言及することで、「だから政治の世界は虚飾の世界だ」などという陳腐なことを言いたかったわけではない。「政治化されていない世界にこそ人生の真実がある」と信じ、「耐えられぬほどに軽い存在」と化してなお自分を生きたトマーシュに共感を持っていただけだろう。しからば、そのように共感している自分が政治の世界に生きているということは何を意味しているのか。「敢えて政治の側に立つ」からには、どういう覚悟を持ち、どういう言葉を吐かねばならず、その先にどういう行動をしなければならないのか。それをずっと考えていたに違いない。

それを考えるのは実に大切なことだ。政治は単なるマーケットの管理者ではない。国家や共同体は今を生きる人々だけの物理的な集合体ではない。政治のふるさとはもっと別のところにある。「生活」という言葉だけでこと足りるはずはない。突き詰めて言うならば、政治の言葉は、それぞれ一度限りの人生を生きながら共同体を構成する人々にとって、生きるため、死ぬための言葉でなくてはならない。「密室の政治」を覚悟を持って為し得ない者に、どうして「公の恋愛」など為し得ようか。

新井氏は最後にこう書いている。
「素直に言って、私は自分自身を多数の支持によって選ばれるという理由で何か誇りに思っているわけではなくて、特別な人を愛し愛されるということだけで自分自身を誇らしく思っているのである。私が政治的現実よりも愛のもたらす力によって、死すべき理由の存在を納得しているということこそ私の真実である。」

あらためて氏の冥福を祈りたい。
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