たけしの忙中閑話

荻窪

大型の台風が接近しているとのことで、連休明けの委員会への出席を確実にするために急遽、日程を変更して上京したところ、ポッカリと丸一日の休日ができた。ここのところ、地元でも東京でも早朝に小一時間ほど自転車に乗るのが日課になっている。が、小一時間では所詮、行動半径が知れている。いつかもっと長い時間があったら、学生時代、そして、秘書時代に青春を過ごした場所を自転車で訪ねてみたいとずっと思っていた。迫りくる台風は気にならないではなかったが、「早朝にスタートすれば風雨が襲ってくる前に帰ってこれるだろう」と踏んで決行を決意した。

赤坂の宿舎を出て新宿御苑にさしかかったところで小雨が降ってきた。「このまま土砂降りになるんじゃないだろうか」と思って一旦、引き返そうとも思ったが、「こんな機会は滅多にあるもんじゃない。ええ〜い、暑くも寒くもない絶好の時期だ。秋雨じゃ、濡れてまいろう」と再決心して青梅街道をまっしぐらに荻窪方面へとペダルを漕いだ。

学生時代、当初は西荻窪に住んでいた。在京の遠縁にあたる人が紹介してくれた「まかない付き」の下宿だった。当時(今もだが)、鹿児島の高校時代に寮で覚えたインスタントラーメンくらいしか作ることのできなかった自分には、朝と晩に食事を出してくれる下宿は実に有難かった。もっとも、ほどなくして朝は起き出せなくなり、夜はあちこちに遊びに行くことが多くなって、せっかくのおばさんの料理をいただく機会も徐々に少なくなっていき、そうなると段々とそのことが申し訳なくなってきて、大学三年の時に近辺を探して隣りの荻窪のごく普通のアパートに引っ越したという次第だった。

秘書時代はほとんど休みのない生活で、アパートには寝に帰るだけのような暮らしだったが、それでも学生時代からの友人たちがそう遠くないところに住んでいたので、なにかと言えば集まってワイワイと賑やかにやったものだ。当時、つきあっていた彼女も駅で言えば「二駅」先の近くにいたので、むろん、頻繁に行き来があった。アパートの近くに銭湯があって、温泉町育ちの自分には信じ難いほどに入浴料が高いと感じたものだったが、あの名曲「神田川」の台詞が身に沁みたのもその頃のことだ。そんなわけで、今でもその界隈には当時の想い出の欠片があちこちに転がっているに違いなかった。行ってみたいような、でも行くのが怖いような、、、ずっとそんな感じでいた。ペダルを踏みながらあれこれ思っているうちに心は徐々に30年前にタイムスリップしていった。

国会に初当選してから、早や25年になる。途中、7年に亘る浪人生活をはさんではいるが、こうやって毎週、東京と地元を往復する生活も通算すると既に18年に及ぶ。してみると、一年の三分の二近くは東京にいるというのに、今までどうして足を運ばなかったのだろう。。。なにもわざわざ自転車なぞ漕がずとも電車や車でくればあっという間に着くものを。。。黙々とペダルを漕いでいるうちにだんだんと思い出してきたのは、その頃、自分は実に悶々とした日々を送っていたということだった。

大学入試は志望校を失敗。一年休学して再受験するもまた失敗。休学していた学校に復学してはみたものの、どうにも面白くなく、次第に学校からは遠ざかっていった。友達や彼女と過ごした日々はむろん楽しくはあったが、心の中はいつもモヤモヤとしていた。高校時代、毎日、桜島の雄姿を眺め、維新の英傑たちの残した香りを嗅ぎながら、将来は政治家になりたいとボンヤリ思ってはいたものの、何をどう始めたらいいのか、皆目、見当がつかないままでいた。そうこうしているうちに、大学二年生の時に父が三度目の県議会議員の選挙に落選する。医師と政治家との二足の草鞋を履いて頑張っていた父の失意の背中を見て、初めて僕は一念発起することになる。自分は二足の草鞋ははかない。まっしぐらに政治の道を進むのだと。

大学三年になってから、多くの政治家を輩出したことで有名な「雄弁会」に所属した。が、「所詮、現場を知らなきゃどうにもならぬ」と考えて、それも途中で切り上げて知り合いの伝手で鳩山邦夫先生の門を叩き、そこから学生兼秘書の生活が始まった。それからの毎日は実に充実していた。目まぐるしく過ぎる日々の中で友達や彼女とは次第に縁遠くなっっていったが、ようやくにして自分が目指している道を少しづつ前進できているような実感を覚えることができた。

鳩山代議士と一緒の写真
鳩山邦夫代議士秘書時代

それでも、とにかく貧乏だった。秘書稼業は、給料は安くとも付き合いだけは多くて出費がかさむ。毎月、先輩秘書から金を借りて、給料日には返済してまたスッカラカンになる。朝は早く夜は遅いので、アパートに帰る時間がもったいなくて、24時間営業でクリーニングも頼めるサウナによく泊っていた。むろん、着たきり雀。毎日、同じ格好をしている自分を見た代議士から「君はいつも同じ服を着ているねぇ。。」などと言われたりもしたが、「ええ。でも、毎日クリーニングしてますから」などと言い返していたことを思い出す(笑)。そんな風だったので何度も家賃を滞納した。それどころか、ガス代も水道代も電気代も払えない時期もあって、アパートに帰ったら全部が止められていて途方に暮れたこともある。その時は蝋燭を買ってきて過ごした。自分が憐れになって、「ああ、これがほんとの洞窟(岩屋)生活だなぁ」と思ったりしたっけ。。。

秘書になって一年半は「随行」と言えば聞こえがいいけれども、要は「運転手」だった。ある時、赤坂の料亭街で代議士が出てくるのを待っていたら、車の前を商社勤めの同級生が通り過ぎていった。おそらくは「接待」の帰りだったのだろう。よっぽど声をかけようかと思ったが、運転手をやっている自分の姿をさらすのが嫌で黙って見過ごした。今にしてみると、なんとつまらないことを気にしたものだと思うが、その時はどことなく気が引けたのだった。大志を抱いているつもりではいるものの、今はしがない運転手。将来に何の約束も保証もない。こんなことで果たして道は開けるのか。。いや、きっと開いてみせる。そうやって自分に言い聞かせたものだった。

アパートは青梅街道と環状八号線の交差点「四面堂」の近くにあった。四面堂から路地に入り、そのあたりに近づいていくと、少し胸がキュンとしてきた。街の様子が当時とはずいぶん違っているので、しばらくの間、思いつくままに辺りをクルクルと回ってみたのだが、見覚えのある商店を見つけたところから、ようやく見当がついてきた。

「あ、あった!ここだ、ここだ。なんと、まるっきりあの時のまんまじゃないか!」

アパートはまるでそこだけ時が止まっていたように、当時の姿のまんまに残っていた。自転車を止め、煙草に火をつけてしばらくそこに佇んだ。僕の部屋は二階建てのそのアパートの二階の一番奥だった。火を消して思い切って階段を昇ってみる。もちろん、今も誰かが住んでいる。おそるおそるドアに近づいてその前に立った。部屋の中身は見ずともわかる。ああ、ここでいろんなことがあったっけ。此処でいっぱい悶々として、そして、此処でいっぱい夢を見たっけ。。。様々な想い出が走馬灯のようによみがえってきた。

10分ほど経った頃だろうか、ようやく正気に返った。「いけない、こんなことをしていたら不審者と間違えられる!今の住人が女性だったらなおさらのことだ」。僕は足早に階段を駆け降り、自転車に飛び乗って、雨足が強くなってくる中を一目散に青梅街道の来た道を突っ走った。途中、二駅先の彼女が住んでいた街も巡ってみたが、その辺りは既に大規模に再開発されていて、もはや当時の面影はみじんもなかった。

帰りは案の定、びしょ濡れになった。降りしきる雨が遠い想い出をもう一度、洗い流していってくれた。

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