岩屋たけしの履歴書

幼少時代

 私は昭和32年8月24日、大分県別府市で父・啓、母・登美恵の長男として生まれました。父の啓は当時、大分日赤病院につとめる医師で、父が医者になったのは子供の頃病弱で、祖父の岩屋護が「体の弱い子を長生きさせるために、おまえは医者になれと勧めたのがきっかけでした。 父は医者をつとめながら大分県議会議員として活躍しましたが、3度目の選挙で落選しました。この時の父の敗北が将来私を政治の道に大きく突き動かすこととなりました。

 幼少時代の私は、とにかくわんぱくな子供でした。お面をかぶり、風呂敷をマントにしては月光仮面の格好をして近所を走り、よく叱られたのを覚えています。

前ページにもどる

学生時代 − 生徒会活動に奮起 −

 私は中学、高校時代にかけてスポーツと生徒会活動に没頭いたしました。青山中学校ではサッカー部に入って汗を流しました。ラ・サール高校時代は1年生の時に生徒会長選挙に立候補して当選することが出来ました。当時の学校は受験勉強一色の学風だったので、私は愛校精神の喚起のために学校のマーク入りのTシャツやペナント、タオルを作り、生徒や父兄に販売して、その財源を基に秋の体育祭と文化祭を盛大に開催し、学園全体のエネルギーを一挙に爆発させることが出来ました。

青山中学校時代(一番右)

ラ・サール高校の体育祭で

 大学2年生の時、ふるさと別府では父の岩屋啓が3度目の県議会議員選挙をひかえていました。私は大学の休みを利用して別府に帰り、必死に父の選挙を手伝いましたが、結果は落選でした。私は政治を志そうと決意しながら何もやっていない自分のふがいなさを父の落選によりつきつけられた気持ちでした。東京にもどった私は、先輩の紹介をもらって多くの政治家を輩出している「早稲田大学雄弁会」の門をたたき、選挙のアルバイト等に明け暮れる生活を送ることとなりました。選挙でのアルバイトをきっかけに衆議院議員 鳩山邦夫代議士の事務所スタッフとして大学在学中から活動することとなり、大学卒業と同時に正式に秘書となりました。国会や、選挙区での秘書活動を通じて、多くのことを学んだ貴重な時間でした。

前ページにもどる

政治家への道のり(県議選立候補)

 鳩山事務所を退職して地元別府に帰った私は大分県議会議員選挙出馬に向けての準備を始めました。28歳のときでした。地元では以前の父の後援会もほとんど消えてしまい、一からのスタートでした。私は「明日の郷土を語る会」と称した集会を各地区の公民館を借りながら開催いたしました。また、顔を知ってもらうためにいろんな忘年会や新年会にも無理やり押しかけては挨拶してまわりました。「若すぎる、やめたほうがいい」という意見が多い中、一人、二人と支持者が増えていきました。

 私を支えたのは恩師である鳩山邦夫のことばでした。「選挙ははじめに候補者の意思ありきだ。やると決めたら誰がなんと言おうと、どんな障害があっても、たった一人でもやりとげる覚悟がなくてはだめだ。」 私は何度か弱気になったときはこの言葉を思い出し、自らを励まして市内を廻り続けました。そして結成された後援会「岩屋たけしとはばたく会」の結成式には700名の方が参加してくれました。

前ページにもどる

衆議院選挙への立候補(平成維新を訴えて)

 私が衆議院議員選挙に立候補したのは平成2年の第39回選挙でした、32歳のとき、大分県議会議員1期目の任期中でした。当時の大分2区の定員は3名、自民党2人、社会党1人が指定席を占める典型的な無風選挙区でした。本来であれば所属政党である自民党から立候補したかったのですが、公認を得られずに無所属での出馬となりました。選挙戦での私のキャッチフレーズは「しらしんけん平成維新」でした。「明治維新で列藩の若者達が生死をかけて立ち上がったように、よどんだ日本の政治を若い力で変えていきたい」私は選挙区をくまなく走りまわりました。

前ページにもどる

選挙期間中の父の死

 投票日の10日前、病床に伏していた父・啓が他界しました。最後まで私の選挙のことを心配してくれていました。この父の葬儀が結果的に選挙期間中の最大の「集会」となりました。父が文字通り命がけで力を与えてくれたのだと思っています。私は葬儀には出席できたものの、そのまま選挙カーで遊説にもどり、父の骨を拾うことができませんでした。

 開票日の平成2月2月18日の夜、選挙事務所には支援者が父・啓の遺影とともに開票速報を見守ってくれていました。「岩屋たけし当選確実」の報がテレビから流れ、私は選挙事務所に駆けつけました。多くの支援者の皆さんにもみくちゃにされながら、私は流れ出て泊まらぬ涙をぬぐっていました。この瞬間を父に見せたかった。「親父、僕は国政の場に立つ政治家として立派にやり遂げます」私は心の中で誓いました。

前ページにもどる

1年生議員として政治改革活動に奔走

 衆議院初当選を果たした私は、同期の1年生議員らとともに国会の中をうるさく飛び回るという意味で「ぶんぶんクラブ」を結成しました。結成式は料亭ではなく、カフェバーで行いました。また政治改革を実現する若手議員の会の中心メンバーとして選挙制度改革を含む政治改革の実現に向けて全力で取り組みました。

前ページにもどる

厳しい試練のとき

 平成5年、平成8年の選挙での落選の中で、私は7年間の浪人生活を経験しました。
この間、私は青年団体での活動やボランティア活動、地域のイベントへの参加、そして時間の許す限り集会を開いて多くの人と語り合ってきました。町や村をすみずみまでまわり、ふるさとの美しさも実感しました。一人の市民として政治、国会を見つめてきた7年間。あらためて守るべきもの、創るべきもの、そのために自分か何をするべきなのかをじっくり考えることが出来た貴重な時間だったと感じています。

前ページにもどる

再起に向けての戦い

 平成12年6月、7年間の浪人生活の総決算ともいえる衆議院議員選挙を迎えました。

「あとのない選挙」そんなプレッシャーの中、厳しい12日間の戦いがスタートしました。

「みんなが自分のためにこんなに頑張ってくれている。」私は最後の力を振り絞っていました。選挙戦最終日、天候はどしゃぶりの雨の中、私と遊説隊は多くの支援者に囲まれながら別府の街を歩き最後の支援を訴えました。遊説を終えてずぶ濡れで帰ってきた私の体を後援会の皆さんが拭いてくれました。私は今回の選挙を支えてくれた皆さんに最後の挨拶をしました。みんなの心がひとつになっているのを感じました。

前ページにもどる

7年ぶりの再起を果たす

 6月25日、開票日当日、別府市の選対開票本部には多くの支持者がかけつけていた。長くつらかった 7年間の想いを胸にテレビでの開票速報を見守っていました。テレビに「岩屋たけし当選確実」が流れた。沸き立つ会場はみんなの歓喜の声と涙であふれていた。自宅で待機していた私にスタッフから電話が入り、「すぐ会場に来てください」と言われました。電話の向こうから歓声が聞こえました。会場に到着した私は入り口からもみくちゃにされながらステージに到着。御礼の挨拶の後、支援者の方が作ってくれた当選祝いのくすだまを引きました。くすだまの中から出てきた垂れ幕には私の心からの感謝の気持ちを書いてくれていました。
「長い間ありがとう。」

前ページにもどる

新たなる出発

 私は7年ぶりの国会に登庁しました。バッジをつけてもらい、衆議院の入り口にあるネームプレートに「岩屋 毅」の文字を見つけて「帰ってきたんだ…」という実感が湧きました。多くの仲間が温かく声をかけてくれました。「岩屋、よく帰ってきたな。またいっしょに頑張ろう」長い間、遠くから見てきた国会だが、美しく、強く、そして誇り高い日本をつくるためにもう一度この中で汗をかいていこう。私は心の中で誓いました。

前ページにもどる

外務副大臣に就任

 平成19年の9月から約1年間、第1次安倍内閣で麻生太郎外務大臣の下で外務副大臣に任命されました。アフリカやヨーロッパ各国を訪問し、各国要人との会談を通じて世界情勢について意見交換を行いました。

前ページにもどる

自民党国防部会長 自民党安全保障調査会 会長

 平成22年9月〜平成23年7月まで自民党国防部会長、平成24年10月からは自民党安全保障調査会の会長を務めさせていただきました。我が国の安全保障政策について多くの方々から貴重なご意見を賜りました。

前ページにもどる

自民党中央政治大 学院長

 平成27年の11月より3年間、自由民主党中央政治大学院の学院長を務めさせていただきました。中央政治大学院は、党員の資質向上を図るとともに、国及び地域の将来を担うにふさわしい人材を発掘、育成するため、本党に中央政治大学院を置き、各都道府県連には地方政治学校を置くことができるものです。

国会議員事務所(秘書)インターンシップに参加した学生の皆さんと

前ページにもどる

防衛大臣に就任

 平成30年10月2日から令和元年9月11日まで防衛大臣を務めさせていただきました。僅か11か月間の大臣職ではありましたが、毎日が緊張の連続でした。国会での答弁、部隊視察、海外出張、災害への対応、各種事故への対応、北朝鮮のミサイルへの対応など、毎日のように起こる新たな課題、問題との格闘の日々でもありました。微力ではありましたが、「国の安全を確保し、国民の平和な暮らしを守る」という崇高な使命を全うすべく全力を尽くしてきたつもりです。この間、終始、ご声援を送ってくださった皆様お一人お一人に心から厚くお礼申し上げます。ありがとうございました

前ページにもどる