忙中閑話

忙中閑話「同窓会」

2009.12.02

先日、高校時代の同窓会があった。小生の今般の「命からがらの当選」を祝ってやるとのことで、東京近郊在住の同級生諸氏が集まってくれたのだ。

 

仕事柄、ありとあらゆる会合に顔を出すが、まぁこれくらい、肩が凝らず、余計な力も入らず、心地よい充足感のある会はほかにない。有り難いことだ。年を重ねれば重ねるほどその傾向は強まってくる。一同、熟してきているということか。人生の「消化期間」のほうが「残存期間」よりも長くなったと自覚できる年になった今日この頃、次第に過ぎし日を懐かしむ思いが強くなってきているからかもしれない。

 

言うまでもないことだが、僕らは高校を卒業して以来、それぞれ別の環境の中を生きてきた。職種も雑多だが、現在、それぞれの分野で光を放ってくれていることは実に頼もしく誇らしいことである。神様はよくぞ、これだけ異なった才能と能力をうまく分配してくれたものだと思う。各自の近況報告にも、青年期に見られたような気負いや衒いもなく、実にいい塩梅にそれぞれの持ち味が発揮されていて、聞いていて気持ちが次第にあったまってきた。

 

僕らが青春期を過ごした薩摩(鹿児島)の生んだ巨人、西郷隆盛が「敬天愛人」を座右の銘としていたことはあまりにも有名な話だ。「天」とはこの世の中の道理。「敬天」とは、「道理に従って歩め」との教え。「人」は、この世の中のすべての人を指す。そこで、「愛人」とは、「人はみんな同胞なのだから、自分を愛するのと同じようにすべての人を愛しなさい」という教えとなる。

 

「愛人」の意味するところはさしづめ「博愛」という風にでも解したらいいのだろう。あえて「友愛」とは言うまい(笑)。西郷さんという人はその事跡をたどってみてもまさに「敬天愛人」を地で生きた人であるということがわかる。それゆえに、時を経ていまなお人々の心の中に生き続けているのだろう。

 

凡愚はなかなかにして翁の境地に達し得ない。が、この年になると、「すべての人は同胞である」という感覚にはしみじみ浸れる瞬間がある。自分という存在は、独りこの世に屹立しているのではなく、すべからく他者との「関係」の中で存立している。その他者とて、辿っていけば依って来たるところは同じであって、神様がもともとは「一つ」のものをすべての人に分配しているに過ぎない。そう感覚できる瞬間だ。

 

と言えば、よく耳にする教えのようではあるけれども、実際にそういう風に感覚できることはごく稀である。それが、「同級会」のような所に行くとスンナリと感覚できてしまう。かしこまった話ではない。「自分は自分の役割を果たしているだけだ。あとはみんながやってくれている」。そう感じて心休まり、身体がゆったりと弛緩していく、あの心地よい感覚だ。

 

「敬天」とは「天を敬い、天に従う」ということだが、思うに、「敬天」のもうひとつの含意は、「運命や宿命といったものを素直に受け入れて歩め」というものなのではないか。

 

人生も半世紀を過ぎると、なにゆえに自分がいまここにいるのか、とふと考えることがある。なぜこの仕事につき、なぜ今日まであれこれの人々と出会い、なぜそこで幾多の愛憎離苦を経験し、この先、どこへ向かい、いったい何処でどんな風に終わることになるのか、、、、。むろん、「己が欲したから」、「己が欲するように」とは言えるのだろう。さりとて、それだけで簡単に答えの出る話ではない。

 

そうしてみると、「縁」であるとか、「運命」であるとか、「宿命」といった言葉にどうしても辿り着く。もっと自立的な響きがする言葉に「立命」というのがあるが、それとて、自ら創造したり獲得したりするものではなく、まさしく「天命」のごとく降下してくるものではないかと、この頃は感じている。これは「諦観」ではない。それよりももっと積極的で肯定的な思いだ。この「天命」をしかと受けとめ、持てるささやかな力を尽くしてみよう、という前向きな思いである。

 

同級会に集まったみんなの心の中にもきっとそんな思いがあっただろう。この年になれば、それぞれが己の天命を全うすることに専念するしかない。時間も限られており、「生き直し」は容易ではないからだ。しからば、「よしっ!」と覚悟を決めて進む以外にない。問わずとも語らずとも一緒にいるだけでそんな思いを共有できる友人の存在は実に有り難いものだ。

 

席上、ある友人がこんなことを言った。「俺たちが会ったのは必然だ」。

 

本当にそう思う。同級生だけではない。今もこうやって周りにいてくれる人たち。毎日のように思いや気持ちを交換している人たち。残された人生で出会うであろう人たち。男であれ、女であれ、とりわけ心惹かれ思い捕られる人であるなら尚更だ。そういう人々との邂逅は実は「天」によって用意され、予定されているのだと思ったほうがいい。「偶然」ではなく、「必然」だと思っていれば、臆することも惑うこともない。「これもまた天命」と、しかと向き合うべきなのだと思う。

 

「性格が人生を創る」と言うが、その「性格」とて、ここまで来れば簡単に変えられるものではない。半世紀も生きてくれば自らの長所も欠点も概ね自覚できてはいるが、両々相まって今日の自分を形成しているのだと思えば、下手にいじくることのほうがむしろ怖い。それよりも自ら愛着を感じてノビノビしたほうがいい。最近はつくづくそう思うようになっている。まぁ、それが高じると、「我儘」ということになるのだろう。でも、「我が思うままに行く」のであれば、それもまたいいではないか。一度しかない人生だもの。そんな風に思えたひとときであった。

忙中閑話