忙中閑話

忙中閑話「ゾマホン氏の祖国」

2007.08.09

彼の名はゾマホン・ルフィン。西アフリカはベナン共和国出身。ビートたけし氏の主催する人気テレビ番組「ここが変だよ、ニッポン人!」で一躍お茶の間の人気者になった。過般、そのゾマホン氏の祖国であるベナン共和国を外務省の出張で訪れる機会を得た。以下、その時の訪問記である。

 

出張が決まったとき、諸般の状況からおそらくはこれが外務副大臣としての最後の外遊になるだろうと思った。出張目的は重要なものであったが、ベナンについては失敬ながら地図上でどこにあるのかすら定かでない。「最後の出張がアフリカの小国かぁ・・・」という感じを持たなかったかと言えば、正直、嘘になる。しかし、結果的にはこの旅が思いもよらずこれまでの十回の外遊中、もっとも印象に残る旅となったのである。

 

冒頭に紹介したゾマホン氏とはテレビで顔は知っていたものの、つい最近まで面識はなかった。しかし、二ヶ月ほど前、そのゾマホン氏がある同僚議員の紹介で外務省に私を訪ねてきたのである。要件は彼の祖国、ベナン共和国で日本が実施している井戸掘削による給水計画に関する陳情だった。

 

正直、氏に関する予備知識のない私は氏のことをそれまで単なるテレビタレントくらいにしか思ってなかったのだが、よく聞いてみるとさにあらず。彼は上智大学大学院で博士課程を目指す学生であり、しかも彼が差し出した名刺によれば祖国では「大統領顧問」の肩書きを持つ「有力者」なのだというから恐れ入った。しかも、日本で稼いだ金でせっせと祖国に日本語学校や小学校を建て続けているというのだから、偉いものである。

 

なるほど、彼が祖国ベナンの窮状について語る口調は極めて熱意にあふれていて実に説得力に満ちていた。現地状況についても同席していた大使よりも明るい。すぐさま担当課を呼んで善処を指示したのであったが、ほどなくしてそのゾマホン氏の祖国ベナンを訪れることになろうとはその段階ではまったく思ってはいなかったのだからして、縁とは実に不思議なものである。

 

小生のベナン出張の最大の目的は、来年、横浜で開催予定の日本が主導する「アフリカ開発会議」に関する、言ってみれば「根回し」にあった。同会議には、出来るだけ多くのアフリカ首脳に参加してもらう必要がある。ベナン共和国のヤイ大統領にも是非参加してもらうべく直談判に出向くことになったのだ。こうなれば、嘘かほんとか知らぬが「大統領顧問」たるゾマホン氏の力を借りない手はない。早速に外務省から氏に連絡を取らせたが、氏は最大限の協力を約束してくれた。

 

参議院選挙開票日の翌日、早速に総理親書を携えて成田からベナンへ向かって出発した。しかしこれが乗り継ぎに次ぐ乗り継ぎの旅である。まずは成田からアムステルダムへ飛び、そこから今度はケニアのナイロビへ、さらに一休みして目的地たるベナンの商都コトヌへと向かった。飛行機に乗っている時間だけで計25時間、乗り継ぎ時間を含めると丸々一日半かかってようやくたどり着くというハードな行程だ。

 

へとへとになってタラップから降り立つと驚いたことにそこには太鼓にラッパに横断幕での大歓迎が待っていた。のちに紹介する「たけし日本語学校」の生徒さんたちである。既に先回りして祖国に戻っていたゾマホン氏が横に立っている。横断幕には「ようこそ岩屋外務副大臣 たけし日本語学校」と書かれてあった。一人の生徒が近づいてきてサッと小生の前に水を撒く。びっくりしているとゾマホン氏が駆け寄ってきて「副大臣、これがここの作法なんです。この水の上を歩いて生徒たちのところへ行って下さい」と言う。ハハァ、映画かなんかで見たことはあったが、ほんとにこんなことするんかいな?と思いつつも指示通りに水を踏んで歩いて歓迎の花束を受け取った。

 

生徒さんたちを代表しての流暢な日本語での歓迎挨拶を受け、答礼の挨拶を述べたのだが、しゃべり終わった途端に再びラッパと太鼓の演奏が再開された。どぎまぎしていると、今度はそこにいる全員が踊りだす。アフリカンダンスは実に動きが早くてダイナミックだ。これが10分ほど続いたあと、ようやく出迎えの車に乗り込んだ。こんな熱烈歓迎を受けたのはなんとも初めてのことで、嬉しいやら、感激するやら、長旅の疲れも一気に吹き飛んだような気がしたものである。

 

翌日はベナン共和国の古都アボメイで開催される47回目の独立記念式典に参加するため、朝一番に再び空港へ向かう。当初は車で移動するはずだったのだが、なんでも「大統領がぜひ飛行機でご一緒に」とのことで、急遽、空路となったのだ。しかし、乗る飛行機を見て驚いた。実にオンボロなのである。「大丈夫かいな?」とは思ったがそんなことは口にできぬ。覚悟を決めて乗り込みシートベルトをきつめに締めたのだったが、ものの15分くらいのフライトであっという間に無事にアボメイに到着した。

 

ヤイ大統領の施政方針は「地方重視」と「伝統尊重」なのだという。これまでは首都周辺でしか開催してこなかった記念式典を三週間前に大統領の決断でこの古都アボメイで開催することに決めたのも、そういう方針に則っとってのことだと聞いた。この町にある「アボメイ宮殿」はかつての王朝の遺跡だが、朽ち果てていたのを日本の支援で修復している。そのことについても感謝の言葉をいただいた。

 

猛暑の中で行なわれた式典パレードは想像していた以上に充実した内容だった。まずは軍の行進に始まり、警察や消防の部隊がそれに続く。それぞれの部隊が工夫を凝らしたスタイルで整然と行進した。小規模で軽武装であるとはいえ、それなりの「錬度」に達していることがわかる。そのあとには市民団体が続いた。思い思いの衣装に身を包んだ一行がちょうど大統領の座る貴賓席の前まで来ると、踊ったり歌ったりのパフォーマンスでアピールし、そのたびに観衆からやんやの拍手喝采が巻き起こる。パリから応援に来ている外務省の事務官の解説によれば、これは明らかにフランス式のパレードなのだという。良かれ悪しかれ、こういったところにも旧宗主国の影響が色濃く出ているのであろう。

 

約二時間にも及んだパレードが終了すると、今度は市内のサッカー場に場所を移し、そこで行なわれた大統領杯争奪のサッカーの試合を観戦した。サッカーコートはところどころ芝生がはがれていてとても良好なコンディションとは言えなかったが、試合はなかなかの熱戦だった。結局、引き分けの末に最後はPK戦で決着したのだが、いよいよ優勝カップが授与されようとした時だ。大統領がこちらを向いてしきりに手招きをする。どうも、一緒に手渡してくれ、ということらしい。遠慮するのも悪かろう。気遣いに感謝しながら大統領と二人で優勝チームのキャプテンに杯を渡して祝福した。

 

そんなこんなで初日の日程をこなしたのだが、いよいよ二日目は本題の「外交交渉」である。まずは経済大臣、外務大臣との会談を行い、引き続いて大統領との個別会談を行なった。今回の旅の最大の目的であった「アフリカ開発会議」については、大統領が最大限の協力を明言してくれ、ひとまず任務を果たすことができたとほっと胸をなでおろしたのだったが、一方で大統領からは多くの宿題もいただいた。日本がこれまで進めてきた医療、教育の支援に加えて現在進行中の井戸掘削による給水支援を加速して欲しいとのことだった。

 

大統領は言う。「自分はもともと銀行家であり、政治家ではない。その私がこの席に座っているのはひとえに国民の支持と期待をいただいたからに他ならない。この国にはようやく民主主義が定着しつつある。しかし、成果があがらなくてはそれも元の木阿弥になってしまう。自分はなんとしても成果を挙げたい。それには日本の協力が必要だ。学校も全国津々浦々に作りたい。病院も充実しなければならない。清潔な水を地域にくまなく届けたい。国民を貧困から解放したい。ぜひ力を貸して欲しい。」 国づくりに対する熱い情熱がひしひしと伝わってきた。大統領は給水支援事業を希望している地域名についても具体的に触れた。それまで日本が計画していた地域と多少のずれがあることがわかったが、私は早速に大統領の意向に沿って計画を練り直すことを確約した。

 

アフリカを支援する国々の中には、大統領宮殿を造ってやったり、スタジアムをまるごと建設したり、政府に大量の車両を寄付したりなどということを好んでやる国もある。しかし、日本の支援はそうではない。国民に直接届く支援、これが基本だ。そのために学校を作り、先生を教育し、井戸を掘り、養殖技術を教え、魚市場に冷凍庫を寄付したりという、決して派手ではないが、着実に国民生活の向上に役立つことをコツコツとやってきている。私はこれからもそうあるべきだと思う。今回、日本が支援して整備した小さな漁港を視察したが、明らかに我が国の支援が現場の労働環境の改善につながっており、想像していた以上に関係者から感謝されていることを実感して、一層、その思いを強くした。

 

いよいよ最終日。ゾマホン氏から、空港へ向かう前にどうしても「たけし日本語学校」に立ち寄って欲しい、との依頼があった。言うまでもないが、「たけし」というのは自分のことではない。あの「ビートたけし」さんの「たけし」である。ゾマホン氏によればビート氏こそ彼の恩人なのだという。冒頭に紹介したように彼が一躍お茶の間の人気者に躍り出たきっかけを作ったのが、ビート氏の企画したテレビ番組、「ここが変だよ、日本人」だったからだ。独特の民族衣装に身を包み、極めて率直かつ情熱的に日本論を語るゾマホン氏のトークが多くの視聴者の共感を呼んだのだ。彼はまたたく間にレギュラーメンバーとなり、「たけし軍団」の仲間入りをした。本も出版したが(「ゾマホンのほん」というタイトルだが、これはなかなかの名著である)飛ぶように売れた。彼は学生でありながら「タレント」としての副業で高収入を得られるようになったというわけだ。

 

しかし、そこから先が実に偉い。ゾマホン氏はその収入を決して自分のためには使わなかった。母国の子どもたちのために学校を建設することに使ったのである。彼がテレビ出演料や出版した本の印税で得た収入は祖国のために投入された。できた学校名を「江戸小学校」、「明治小学校」という。日本の発展の歩みこそが祖国ベナンの今後にとって最大のヒントになるというゾマホン氏の持論に拠るものだ。そしていよいよ念願の「日本語学校」まで作ってしまうのだが、その校名を恩人たるビート氏にちなんで「たけし日本語学校」としたのだという。

 

その話に私は大いに感じ入った。それだけの収入があれば、祖国に凱旋して大豪邸のひとつやふたつ作れるだろうにと誰しもが思って不思議でない。しかし、ゾマホン氏はいまなお6畳のアパートに住み続け、せっせと祖国への送金を続けている。見上げたものではないか。そもそも自費でわざわざ日本や日本語を学ぶ学校を作ってくれている人など世界広しといえどもゾマホン氏以外にはあるまい。ここはぜひとも「たけし学校」とやらに伺って敬意を表し、生徒さんたちを激励したい。そう思って喜んで伺うことにした。

 

学校に着くとまたもや「水撒き」と「大音響」での熱烈歓迎を受けた。日本にいるときの感覚で言えば、実に粗末な作りの学校ではある。しかし、そこには最近の日本ではあまり見られなくなった目をキラキラと輝かせている青年たちが待ち受けていた。

 

二人の青年から歓迎のスピーチがあった。これまた流暢な日本語である。「岩屋副大臣、どうかベナンから多くの学生が日本に行って学べるようにしてください。ベナンの大学でも正式に日本語を学べるようにもして下さい。そして、早くベナンに日本の大使館を作ってください!」 ともに切実な訴えだった。私は大いに感じ入り、「最大限の努力を約束する」と答えた。

 

ゾマホン氏が口を開いた。「私は日本との出会いに心から感謝しています。生徒の皆さん、お陰さまで、という言葉を知ってますか? あなたのお力があってはじめて私がある、という意味ですね。これが日本人の精神なんです。わかりますか? ベナン人のように自分が、自分がというのは駄目です。自分だけよければいいなんて絶対駄目! それでは国が発展しません。日本人はそんなことない。自分のことだけじゃなくてみんなのことをいつも考える。だから、資源もないのに発展した。ベナンも一緒。小さい国。資源ない。でも、日本のようにしたら発展する。そのためには日本の精神、日本人の考え方、見習わなくてはいけない!・・・」 ゾマホン氏の熱弁を聞きながら、正直、下を向きたい気持ちになった。今の日本は彼が絶賛するほどの国たりえているだろうかと思わず自問自答した。

 

話の途中でゾマホン氏が日本人教師を指差して言った。「ベナンのこの地域の言葉でベナン国歌を歌ってみてください」 ベナンの民族衣装をはおったその清楚で美しい日本女性はすぐさま立ち上がって見事に現地の言葉で国歌を歌い上げた。満堂の拍手だ。次にゾマホン氏はベナン人の学生の一人に同様の指示をした。はて、なぜだろう?と不思議に思ったのだが、直後にその意味が判明した。彼には歌えない、のである。彼の出身地は違う種類の現地語を使っており、しかも彼が通った学校の授業はフランス語である。したがって彼は先に日本人教師が使ったこの地域の言語であるフォン語をよく理解できないのだ。これが長らく植民地であった国の現実なのか、とあらためて思い知らされたような気がした。

 

「副大臣、これがベナンの現実なんです。ベナンでは一部のエリートがフランス語を話せるだけ。あとの言葉はバラバラ。大統領がフランス語で演説しても国民の大半は何を言っているのかわからない。これで国が発展しますか? 私は将来、ベナンの共通語を作りたい。きっとフランスは嫌がるでしょう。でも、そうしないと駄目。国、発展しない。そのために日本で博士号を取ったらベナンに帰って大学で仕事をしたい・・・」 憂国の情あふれるゾマホン氏の演説を聞く学生諸君の顔は真剣そのものだった。

 

当たり前のこどだが、途上国の人々を侮ってはならない。彼らには我々が失いかけている建国の情熱があり、貧困からなんとしても這い上がろうという根性がある。そして、貧しいがゆえに助け合っていこうという家族の愛情や連帯の精神がある。「家貧しうして孝子出づ」という言葉は日本ではもはや死語になりつつあるが、ここにはその実態がある。ゾマホン氏は日本に多くを学んだと言った。しかし、実のところは我々こそが彼らに学ばなければいけないのではないか。日本の「支援」はたしかに役に立ってはいようが、一方的に何かを与えているのではなく、むしろ受け取っているもののほうが多いのではないか。そんな思いを強くした。

 

おそらく外務副大臣としては最後の外遊となるであろうこの旅は何よりも私自身に多くのものをもたらしてくれた。この世に生きとし生ける者は何処の誰とて同じく幸福を希求し、繁栄を願って生きている。たまさか先達の努力のお陰で実現した繁栄の上にあぐらをかいていてはいけない。国を興し続ける。あるいは作り直す。立て直す。その不断の歩みがいかに尊いものであるか。そのために自分は何を成し得るのか。帰りの機中でそんなことをつらつら考えていた。ほんとにありがとう。この先も、あの瞳輝く青年たちのことは忘れまい。そして、貧しくも美しいゾマホン氏の祖国のことも。

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