忙中閑話

忙中閑話「年賀状」

2015.01.04

元旦の朝、誰でも最初にやることと言えば、年賀状を見ることだろう。我が家ではどういうわけか、母が一番先に見て、仕分けすることになっている。母は起きだすとすぐにポストに向かうのだが、それほど早い時間に届くわけではないので、自分の部屋とポストのある玄関まで何度も行ったり来たりしては「まだ来ない、まだ来ないわ」とソワソワすることになる。可笑しくもあるが、それも含めて我が家の正月風景の一部となっている。

 

仕事柄もあって、有難いことに毎年、たくさんの賀状をいただいている。自宅にも地元事務所にも東京事務所にも、さらには宿舎にも届くので、それらを集めて目を通し、仕分けして返事を書き終わるまでに毎年、二週間くらいの時間を要することになる。手間はかかるが、一時に知人友人の消息を把握できるという意味では、楽しく心弾む作業でもある。

 

もちろん、自分でも出す。印刷したものを大量に送るのは「公選法違反」ということになっているのでやらないが、家族全員の集合写真を使った肩書抜きの賀状を毎年やり取りをする方々を中心に、家内と手分けして書いて出す。昨年末は突然の解散総選挙で十分な時間が取れなかったが、それでも二人で夜なべをして大晦日までに約700枚ほどの賀状を書いた。

 

賀状に書くスペースは限られているので、短くて一行、長くて三行ほどしか書けぬが、それだけに相手によってどの言葉を選ぶべきか、そのたびに考えをめぐらしている。そうしてみると、当方に賀状をくださる方もまた同じことをやってくれているわけだ。そうやって時間を費やし、文字通り、手を煩わせていただいているということ自体に感謝の思いが湧いてくる。

 

 

子どもたちが家にいた頃は、子ども宛ての賀状もいくぶん混じっていたのだが、彼らが家を離れた今はほとんど見なくなった。もっとも、最近の若者はメールで済ませているのだろう。例の「あけおめっ!」というやつだが、社会人ともなれば、先輩や上司にそんなメールを送りつけるわけにはいくまい。どうしているか聞いてはいないが、最低限の礼節はしっかりわきまえておいて欲しいと願っている。

 

本格的なネット時代の到来によって、年賀状に限らず、「郵便」というものを使う機会は格段に減ってきた。まぁ、それが「日本郵政」の悩みの種でもあるわけだが、いまさら後戻りもできまい。ネットの中で行き交う情報量たるや、もはや他の媒体の追随を許さず、さらに日々、拡大を続けている。かくいう自分自身も毎日のようにfacebookなどで大量の情報を発信し、受信している有様だ。

 

たしかに便利にはなった。携帯電話ひとつあれば、文章であれ、写真であれ、画像であれ、はたまた音楽であれ、大量の情報を個人がいつでもどこでも発信、受信できるのだ。それらを仲間同士ですぐに共有もできる。賀状であれ、案内状であれ、専門業者に頼まずともパソコンひとつで簡単にプロ仕様のものが作れる時代である。これでは印刷屋がお手上げにもなるはずだ。

 

が、そうなってくればくるほど、残っていくのは「手作り」のもの、「手書き」のものとなる。賀状の有様はまさに百人百様だが、手にとって何度も見返したくなるのは、やはり肉筆で一筆書き添えられているものだ。そんな賀状にはインクの滲みからも相手の息遣いが聞こえてくる。むろん、字の上手い下手はある。達筆であるに越したことはないが、そんなこと以前に、自らペンを取って心を届けようとしてくれていることが有難い。

 

10年ほど前からだったか、当初、おそらくは小学校に上がるか上がらないかのくらいの男の子から毎年、賀状が届くようになった。

 

「いわやたけしおじさん。あけましておめでとうございます。がんばってください。ぼく、いつもおうえんしています。」

 

最初は全部、ひらがなだった。しかも、いかにも覚えたてといった感じで、鉛筆で書かれた大小の文字が葉書のスペースいっぱいに踊っていた。嬉しくなって自分も早速に全部ひらがなで返事を書いた。当方の住所は親に教えてもらったに違いないが、きっと、「岩屋たけしさんに年賀状を出したい」とせがんでくれたのだろう。

 

それから、その子から毎年届く賀状からは、当然のことながら、成長ぶりが一見して伝わってきた。ひらがなが一つ一つ漢字に変わり、文章も年々、長く、かつ整ってきた。こちらも毎回、同程度の文章にして返事を書いた。有権者でもなく、おそらくは政治や政治家のなんたるかもわからぬであろう一人の子どもから関心を持ってもらえたことが、とても嬉しかった。

 

今年、少し寂しかったのは、とうとう、その子から賀状が届かなかったことだ。考えてみればあれから10年も経つ。きっと大学生になった頃か、あるいは、もう働き始めたのだろうか。。。いずれにせよ、毎年、賀状をやり取りしていた「岩屋毅」という政治家の姿が彼にはもうクッキリと見えているに違いない。そうなると、いよいよ気恥ずかしくなってきたのか。。。いや、もしかすると、「おうえんするにたりない」と思われたのかもしれない。。。いろいろと思いがめぐった。

 

いつか、社会人となり、有権者となった彼からもう一度、賀状が届く日がくるだろうか。。。届けてもらえる自分でありたい。そう思いながら、今日も賀状に返事を書いている。

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