忙中閑話

忙中閑話「敵は我にあり」

2008.09.30

人事というものは政治の世界であれ、役所であれ、会社であれ、団体であれ、どこの世界にあっても実にやっかいなしろものだ。なにしろ、「選ばれし者」とそうでない者が一日のうちに判然としてしまう。もとより、「選択」というものは何かを選び、何かを捨てるもの。どうやってみたところで現場は「悲喜こもごも」ということになる。

 

当然のことながら、選ばれし者は歓喜し、そうでなかった者はひとしきり落胆する。後者のほうからは時にうめき声が聞こえ、場合によっては恨み節とて出る。しかし、誰も決断者の苦悩については思いが至らない。決断者は時に非情に徹しなければならない。そればかりではなくて、ある程度の温情も示さなければならない。いかにして集団を率い、いかにして掲げた目標に接近していくか。そのためにどういう陣立てが必要か。新たにリーダーとなる者にとって、誰しもが最初にくぐり抜けなければならない関門であり、最初の最も重要な決断である。

 

思うに、人間には「旬」というものがある。もっとも充実した時に適役が配されればこれに勝ることはないが、なかなかそうもいかないのがこの世の常だ。しかし、「天」はじっと見ている。「天」の配材は最終的には狂わない。「ここしかない」、「こいつしかいない」という時をじっと見据えている。人々の準備のあり様、その仕上がり具合をずっと観察している。凡夫たる我々はそう思って、修練を重ねながら自己を充実させ、「旬」の時を待つしかない。

 

かつて広田弘毅は首相になる前の不遇の時期に「風車 風が吹くまで 昼寝かな」という詩を詠んだのだという。文字通り、昼寝をしていたというわけでもあるまいが、その心は、「不遇に落胆もせず、ジタバタもせず、自分は自分の道を行く」ということであったろう。自分を強く信じていなければできないことだ。志をしっかりと立てていなければ到達し得ない心境である。

 

民間人であれ、公務員であれ、サラリーマンの世界もまた、一年ごとに「悲喜こもごも」の場面が繰り返されているのであろう。突然に上から降ってくる辞令を運命として引き受けるしかない。その上でどう振舞うか。そこが肝心である。栄転に浮き足立った者にはやがて落とし穴が用意され、左遷にへこたれず力を尽くした者にはいつの日か浮上のチャンスが訪れる。人間、いたるところに青山あり、だ。どこで何をしていても「一隅を照らす」という謙虚な心構えと堅固な使命感があればいい。そういう人を「天」は決して見捨てない。

 

話は変わるが、最近読んだ本でもっとも感銘を受けたのは、現楽天イーグルス監督の野村克也さんの本だ。本屋でパラパラと文庫本をめくった時に、これは面白そうだと思って買ってきた。タイトルは「敵は我にあり」。

 

野村さんは言うまでもなく、我が国の球界を代表する名スラッガーでホームラン王や三冠王に何度も輝いた名選手である。しかし、著書を読んでみると、誠に不器用な選手だったのだという。なにしろ、この名バッターがカーブにタイミングが合うまで7年もかかったらしい。野球には門外漢である小生にはその難しさがよくわからぬが、その不器用さたるや、いやしくもプロと名のつく選手の中では断然、「抜きん出ていた」のだそうだ。

 

そこで氏は誰よりも遅くまでバットを振り続ける。球種によって投手のフォームに微妙な違いが現れることに気がつき、懸命にその癖をよむ技を身につける。そして、狙い玉を絞り込んで水平打法で強打する野村流のスタイルを確立した。感心するのは、氏の努力が単なる「クソ努力」ではなく、常に入念で緻密な思考をともなった努力であったという点だ。自分の欠点を知り尽くし、あらゆる試行錯誤の末にそれを補い、克服してきたその過程には実に感銘を受ける。まさに本のタイトルにあるとおり、「敵は我にあり」だ。

 

どんな世界であれ、「勝負」というものがつきまとう。「勝負」であればこそ、勝者と敗者が生まれる。「勝敗は時の運」とも言われるが、それは傍観者の諦観であって、決して当事者の心構えであってはなるまい。「勝敗はプロセスの結果」だというのが真相だ。正しいプロセスは己をこそよく知ることに始まる。結果だけにこだわると、「敵」のことばかりが気になって肝心の自身の力が発揮できない。それでは相手にひきずられる。相手を引きずらなければ勝機は生まれない。

 

「敵は我にあり」。言い換えれば「敵在心中」。自分の弱さ、脆さ、ふがいなさ、それとまず向き合うことだ。そして、向かうべき目標と自らの使命をさらに堅固にすることだ。それでこそ本当の強さが生まれる。そうなれば、「敵」は「敵」でなく「味方」にもなる。これから再び時代の奔流の中に身を投じようとしている今、あらためて自分にそう言い聞かせている。

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