忙中閑話

忙中閑話「養毛剤」

2004.07.24

最近、どうもおかしいのである。頭ではない。髪の毛のことである。次第に前頭部が薄くなり始めているのだ。「そんなはずはない!」と思って何度、鏡をのぞいてみても、やっぱりその兆候は現れている。

 

先日、散髪に行った時に頭皮をマッサージしてくれている店員さんに「ねぇ、最近、薄くなったと思わない?」と聞いてみた。すかさず「そんなことないですよ。それに髪なんて年相応にあればいいんです」との優しい返事。「いや、それにしてもちょっと気になるんだ」と言ったが次の言葉が返ってこない。「そうか。やっぱり薄くなってるんだ・・・」と言おうとして後ろを振り返ったら、黙って隣の椅子を指差された。見ると、「いったい、この人がどこをカットするんだろう」というくらい、「状況」が進行してしまっている御仁が髭剃りの最中だった。「しまった」と思ったが、その途端、思わず目をそむけた(笑)。

 

実は自分は子どもの頃から髪の毛の量が多かったのである。祖父からは「馬鹿の大たぶさ」などと言われていた。最初はなんのことかわからなかったが、髪の毛の多いやつは、そっちにばかり栄養が行って肝心の脳みそにまで回らない、という意味らしかった。もっともその頃、既に祖父の頭は薄くなっていたので、孫のフサフサの髪の毛を見て悔し紛れに言っていたに違いないと今では思うのだが、いずれにしても、その「大たぶさ」が最近、急速に危機に瀕しつつあるのである。

 

だいたい、こういうのは「遺伝」によるところが大きいらしい。そういう意味では我が家の場合、40才を過ぎたあたりからだんだんと危険水域に入るのではないか、と以前から警戒を怠らないようにしていた。しかし、45才を過ぎても最近まであまり変化がなかったので、実は自分はその危険水域を幸運にも突破できたものと人知れずほくそえんでいたのである。フフフ。。。。だが、現実はそれほど甘くなかった。アァ。。。。

 

父は既に亡くなっていて「進行」の度合いは確認できないが、叔父などの「状況」を注意深く観察していると、ますます危機感が増幅されてくる。家の仏壇の横には祖父と父の写真が飾られており、最近は線香をあげたあと、その70歳当時の祖父と54歳当時の父の写真(頭)をマジマジと見つめることが多くなった。遺影を見つめ続ける自分を傍らにいる母などは「最近、ずいぶんと信心深くなったものだ・・・」とでも思ったのか、いたく感心した風でいるのだが、実は生物学的にもっとも近い両者を比較することによって今後の「進行具合い」を恐る恐る想像していたのである。

 

そうなってくると、今度はテレビでの「養毛剤」や「かつら」などの宣伝がいやでも目に入ってくる。自信に満ち溢れていた頃は「ウム。世の中には気の毒な人たちもいるものだ」くらいに思っていたが、もはや悠然と構えているわけにもいかなくなってきた。よく見てみると、なるほどコマーシャルというのはうまく作られている。商品名を出して恐縮だが、「リアップ」などという名前はそのものずばりで実に魅力的に聞こえる。あるいは「医薬品だけにできることがある」などというフレーズも心にズシリと響く。最近は「ヘアーコンタクト」なる商品も出てきていて、「ウウム。いよいよの時はあれか。。。」などと唸ったりする。そして「戦わなくちゃっ!」という一言に奮い立つ。

 

実は「同業者」の中にも「同憂」の士は少なくない。これまでは別に気にとめることもなかったが、最近は会議の席に座ってもどうしてもまず同僚の「頭」に目が行ってしまう。進行具合いは百人百様だが、よく観察してみると様々な対策が施されている。それぞれに苦心のあとが見られて実に興味深い。もっとも多いのは「残存部分」をやたらと長く伸ばし、それをもって「枯渇部分」を覆い、そこを粘着力の強い整髪料で固定するという手法だが、これも極端に過ぎると某大臣のようなことになり、一見、異様な風貌となる。これだけはなんとしても避けたい、と強く決意している。

 

そうかと思うと、思い切ってスッポリとかぶってしまっている御仁もいる。かえって堂々としていていい、と思わなくもないが、なんだか頭から「嘘をついている」ような感じもして、仕事柄からしてあまり好ましくないのでは、と思ったりする。あるいはまた、すっかり諦観の域に達しているのであろう、「少し残っているのなどというのかえってみっともない」として、きれいさっぱり剃り落としている豪傑もいたりする。自分はなかなかそこまでの勇気は持てない。なんとか食いとめなければ、と唇を噛み締める。

 

まぁしかし、一方では「男が髪の毛ぐらいのことでクヨクヨしてどうする!」と自分を叱ったりもする。小生の友人にベンチャーの騎士として活躍中の某君がいるが、彼などは相当に進行している。むろん、大金持ちである。いくら金があったとて髪だけは買えない、ということをまざまざと思い知らされる観もあるが、それとて、その日頃の態度たるや実に堂々たるものである。「髪なんかなんぼのもんじゃい!」という気概が伝わってきて大いに教えられるものがある。

 

そう言えば、1年ほど前に地元の別府事務所の同じ二階のフロアーの空き部屋に某かつらメーカー大手の支社が入居した。当初はギョッとしたし、正直、「よりによってこんなところにこなくても・・・」と不愉快に思ったりしたものだ。なにしろ、それ以来、うちの事務所の一階の入り口には「岩屋たけし」という看板と「ア○ランス」という看板が仲良く並んで立っているのである。どうにも体裁が悪い。以来、事務所に来る人がなんとなくこっちの頭を注意深く観察しているような気がしてならない。

 

しかし、自身に危機が迫ってくると、人間とはげんきんなもので、この支社の存在がなんとなく頼もしく感じてくる。隣の部屋に出入りするのなら、人目にもつかないし、そうだ、一度、「ヘアチェック」なるものに行ってみようか、となどと思ったりするのだが、それもなかなか勇気の要ることなので、先日、おそらく近々に同じ悩みを持つであろう弟に「お前、試しに行ってみたら」と指示しておいた。

 

しかし、まだあきらめるのは早い。何事もあきらめてはならない。しばらくは「戦う」つもりである。戦うからには断固とした決意でやらなければならない。「成せば成る。成さねば成らぬ」の決意だ。いや、それしきの決意ではいけない。「生えぬなら、生やしてみしょう、ホトトギス」の強い意志が必要だ。「戦い破れて山林草木無し」となってはならない。そうだ、断固、戦い抜き、そして勝ち抜くのだ!

 

そういうわけで、今、我が家の洗面所には数種類の「養毛剤」が並んでいる。どれが効くのかわからないので、朝晩、品をかえて試している。こういう時、消費者とは愚かなもので、やはり価格が高いほうが効き目があると考えて、どんどん高いやつを買ってきてしまう。どの製品の但し書きにも、頭皮のマッサージが重要だ、と書いてあるので、一生懸命にやっているが、これも度が過ぎるとかえって逆効果なのではないか、と心配になったりする。しばらくはかくのごとき試行錯誤が続いていく。万が一、戦いに敗れることがあっても、その際はどうか優しく見守っていただきたいと願う。

 

そこで最後にコマーシャルの名文句にちなんで、一句。

 

「抜け始めて思い出す 髪のなーーーいお友達」

忙中閑話