忙中閑話

忙中閑話「懐中時計」

2004.05.03

ここのところ、懐中時計にはまっている。しかも自動巻きでもクウォーツでもない、手巻きのメカニックものだ。決して「お洒落」からではない。実は小生、見かけによらず肌が弱く、腕時計をすると肌が荒れてしまうのだ。一時期、チタン製なら大丈夫だと言われ、いろいろと試してみたがやっぱり駄目だった。とりわけ、これからの暑い季節にはどうしようもないのである。

 

今やどこに行っても壁に時計がかかっている。携帯電話にも表示される。時計なんて、なければないで特に困るわけではないが、壇上で決まった時間だけ話をしなければいけないときもある。政治家の話はだいたい長くて嫌がられるものだ。年をとればとるほどその傾向は強まる。偉くなると誰も指摘しないから余計、長くなる(笑)。自分はいつも「いかにして短く話すか」を心がけているつもりだが、自分の感覚が狂うときだってある。そういうときにはやはり時計は必需品だ。

 

そこで、使ってみたのが懐中時計。これが実に気に入っている。なにせ、手巻きだから毎日、決まった時間にねじを巻かなければいけない。最初は面倒ではないか、と思ったがこれがそうではない。さわってもさわらなくても勝手に動き続けるクウォーツでは、変な言い方だが、時計との「交流」というものがない。手巻きの時計は自分がパワーを与えてやらないことには動かない。一日でもさぼるとすぐに止まってしまう。毎日、毎日、「息」を吹き込んでやることで時計自体も、その時計が刻む時間さえもいとおしく思えてくるから不思議だ。

 

思うに、時計はやっぱりアナログがいい。「針」がないのはどうもいけない。デジタルの時計は便利だが、突然、数字がパッと変わるのはなんとなく味気ない。ものごとには「経過」というものがある。5分から6分にかわるまでの間には言うまでもなく確かな「経過」というものがあるのだ。デジタル時計でもその経過がわからないではないが、「秒」の単位まで数字で示されるとなんとなくめまぐるしい感じがして気持ちが落ち着かない。その点、アナログの「針」はゆっくりとその「経過」というものを刻んでくれるのがいい。時計自体も、その時計が刻む時間さえもいとおしく思えてくるから不思議だ。

 

懐中時計は紐や鎖でベルトにくくりつけ、普段はポケットの中にしまわれている。そして、見たいときに引っ張り出して時間を確認する。長い会議の時や、壇上で話をするときははずして机の上に置いておく。これがまた面倒だという人もいるが、慣れてくると決して苦にはならない。むしろ、時間を確認するたびにさわってやらなければいけないので、だんだんと愛着が湧いてくる。「おぅ、お前、ちゃんと動いてくれていたか。すまんな」とでも声をかけたくなる(笑)。

 

ほかにもいいことがある。腕時計は必ず、シャツを傷めるのだ。長く使っていると必ずといっていいほど、時計をしているほうのシャツの袖がほころんでくる。ちょっぴりお洒落なクレリックという襟と袖が違う色になっているシャツがあるが、あれは最初からああいう風に作るものでは本来なく、襟や袖が傷んできた時に付け替えたというところから始まったのだそうだ。で、懐中時計ならその心配がない、というわけである。

 

当たり前のことだが、電池を入れ替えにいったりしないでいいのもいい。今のクウォーツは2年や3年は大丈夫なやつがあるし、太陽光発電というのもある。最近にいたっては「電波時計」といってほとんど時間が狂わないものや、キネティックとかいって、止まっていてもさわった途端に現在の時刻を刻むなどというしろものもあるそうだが、まぁ、そんなことまで時計に望むのはいかがなものか、という気がしないではない。メカニックの時計は結構、誤差が生じるものだが、その時計の癖をわかっていれば特段なんということはない。

 

自分はもっていないが(少しばかり偉そうに見えるし、なにせ暑がりだから)、冬になるとスリーピースという背広を着る人もいる。こういうときには懐中時計は内側に着たベストのポケットに入れられることになる。ロマンスグレーの紳士になると、そこから時計を取り出す仕草はなかなか絵になるものだ。それなりの年になったら、いつかは試してみたいものである(笑)。

 

ともあれ、そういうわけでこれからずっと懐中時計の世話になるつもりである。第一、腕時計に凝ると金がかかってしょうがない。その誘惑にかられる心配がないのも自分にとってはありがたい(笑)。なにもかもデジタライズされつつある昨今だが、身の回りにこんなものがあってもいいな、と感じている。手垢にまみれた古時計をいつか息子が使ってくれれば、などと考えてみたりするのも実に楽しいものだ。

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