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プロフィール

岩屋たけし
昭和32年8月24日生。別府市立青山小学校・青山中学校を経て鹿児島ラ・サール高校入学。スポーツ、生徒会活動に汗を流す。早稲田大学政経学部政治学科卒業後、代議士秘書として政治の基礎を学ぶ。
職歴
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昭和62年
大分県議会議員初当選(29歳)
平成2年
旧大分2区より衆議院議員初当選(32歳)
平成5年
選挙では落選
平成8年
選挙では落選
平成12年
衆議院大分3区より当選し再起を果たす
平成13年1月〜5月
防衛庁長官政務官を務める。
平成15年
第43回総選挙当選(3期目)
平成14年1月〜平成16年10月
自民党副幹事長
平成17年9月
第44回総選挙当選(4期目)
平成17年3月〜12月
自民党大分県連会長
平成17年9月〜平成18年8月
自民党政務調査会副会長
平成18年9月〜平成19年8月
外務副大臣
平成19年9月
自民党国会対策副委員長就任
平成20年9月
衆議院文部科学委員長就任
平成21年8月
第45回総選挙当選(5期目)
平成21年10月
自民党大分県連会長就任
平成22年9月
自民党シャドウキャビネット防衛大臣に就任
平成22年9月〜平成23年7月
自民党国防部会長
平成24年10月〜
自民党安全保障調査会会長、自民党総務副会長
平成24年12月
第46回総選挙当選(6期目)
平成26年12月
第47回総選挙当選(7期目)
平成29年10月
第48回総選挙当選(8期目)
平成30年10月〜令和元年9月
第4次安倍改造内閣にて防衛大臣
令和3年10月
第49回総選挙当選(9期目)
令和6年10月
第一次石破内閣にて外務大臣

【現在の役職】
〇衆議院
・情報監視審査会 会長
・予算委員会 委員
・憲法審査会 委員

○党本部
・治安・テロ調査会 会長
・選挙制度調査会 会長代行
・観光立国調査会 会長代理
・安全保障調査会 顧問

○議連
・自由民主党 観光産業振興議連 会長 (R6/1/18)
・安全で安心な国民生活を実現する議連 会長(R4/1/27)
・選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議連 会長代行(R3/3/25)
・最低賃金一元化推進議連 幹事長(R3/12/17)
・全国温泉振興議連 幹事長(H30/3/1)

2024年1月26日現在

岩屋たけしの歩み

幼少時代

私は昭和32年8月24日、大分県別府市で父・啓、母・登美恵の長男として生まれました。父の啓は当時、大分日赤病院につとめる医師で、父が医者になったのは子供の頃病弱で、祖父の岩屋護が「体の弱い子を長生きさせるために、おまえは医者になれ」と勧めたのがきっかけでした。 父は医者をつとめながら大分県議会議員として活躍しましたが、3度目の選挙で落選しました。この時の父の敗北が将来私を政治の道に大きく突き動かすこととなりました。
幼少時代の私は、とにかくわんぱくな子供でした。お面をかぶり、風呂敷をマントにしては月光仮面の格好をして近所を走り、よく叱られたのを覚えています。

学生時代 − 生徒会活動に奮起 −

私は中学、高校時代にかけてスポーツと生徒会活動に没頭いたしました。青山中学校ではサッカー部に入って汗を流しました。ラ・サール高校時代は1年生の時に生徒会長選挙に立候補して当選することが出来ました。当時の学校は受験勉強一色の学風だったので、私は愛校精神の喚起のために学校のマーク入りのTシャツやペナント、タオルを作り、生徒や父兄に販売して、その財源を基に秋の体育祭と文化祭を盛大に開催し、学園全体のエネルギーを一挙に爆発させることが出来ました。

青山中学校時代(一番右)

ラ・サール高校の体育祭で

大学2年生の時、ふるさと別府では父の岩屋啓が3度目の県議会議員選挙をひかえていました。私は大学の休みを利用して別府に帰り、必死に父の選挙を手伝いましたが、結果は落選でした。私は政治を志そうと決意しながら何もやっていない自分のふがいなさを父の落選によりつきつけられた気持ちでした。東京にもどった私は、先輩の紹介をもらって多くの政治家を輩出している「早稲田大学雄弁会」の門をたたき、選挙のアルバイト等に明け暮れる生活を送ることとなりました。選挙でのアルバイトをきっかけに衆議院議員 鳩山邦夫代議士の事務所スタッフとして大学在学中から活動することとなり、大学卒業と同時に正式に秘書となりました。国会や、選挙区での秘書活動を通じて、多くのことを学んだ貴重な時間でした。

政治家への道のり(県議選立候補)

鳩山事務所を退職して地元別府に帰った私は大分県議会議員選挙出馬に向けての準備を始めました。28歳のときでした。地元では以前の父の後援会もほとんど消えてしまい、一からのスタートでした。私は「明日の郷土を語る会」と称した集会を各地区の公民館を借りながら開催いたしました。また、顔を知ってもらうためにいろんな忘年会や新年会にも無理やり押しかけては挨拶してまわりました。「若すぎる、やめたほうがいい」という意見が多い中、一人、二人と支持者が増えていきました。

私を支えたのは恩師である鳩山邦夫のことばでした。「選挙ははじめに候補者の意思ありきだ。やると決めたら誰がなんと言おうと、どんな障害があっても、たった一人でもやりとげる覚悟がなくてはだめだ。」 私は何度か弱気になったときはこの言葉を思い出し、自らを励まして市内を廻り続けました。そして結成された後援会「岩屋たけしとはばたく会」の結成式には700名の方が参加してくれました。

衆議院選挙への立候補(平成維新を訴えて)

私が衆議院議員選挙に立候補したのは平成2年の第39回選挙でした、32歳のとき、大分県議会議員1期目の任期中でした。当時の大分2区の定員は3名、自民党2人、社会党1人が指定席を占める典型的な無風選挙区でした。本来であれば所属政党である自民党から立候補したかったのですが、公認を得られずに無所属での出馬となりました。選挙戦での私のキャッチフレーズは「しらしんけん平成維新」でした。「明治維新で列藩の若者達が生死をかけて立ち上がったように、よどんだ日本の政治を若い力で変えていきたい」私は選挙区をくまなく走りまわりました。

衆議院選挙への立候補(平成維新を訴えて)

投票日の10日前、病床に伏していた父・啓が他界しました。最後まで私の選挙のことを心配してくれていました。この父の葬儀が結果的に選挙期間中の最大の「集会」となりました。父が文字通り命がけで力を与えてくれたのだと思っています。私は葬儀には出席できたものの、そのまま選挙カーで遊説にもどり、父の骨を拾うことができませんでした。
開票日の平成2月2月18日の夜、選挙事務所には支援者が父・啓の遺影とともに開票速報を見守ってくれていました。「岩屋たけし当選確実」の報がテレビから流れ、私は選挙事務所に駆けつけました。多くの支援者の皆さんにもみくちゃにされながら、私は流れ出て止まらぬ涙をぬぐっていました。この瞬間を父に見せたかった。「親父、僕は国政の場に立つ政治家として立派にやり遂げます」私は心の中で誓いました。

1年生議員として政治改革活動に奔走

衆議院初当選を果たした私は、同期の1年生議員らとともに国会の中をうるさく飛び回るという意味で「ぶんぶんクラブ」を結成しました。結成式は料亭ではなく、カフェバーで行いました。また政治改革を実現する若手議員の会の中心メンバーとして選挙制度改革を含む政治改革の実現に向けて全力で取り組みました。

厳しい試練のとき

平成5年、平成8年の選挙での落選の中で、私は7年間の浪人生活を経験しました。 この間、私は青年団体での活動やボランティア活動、地域のイベントへの参加、そして時間の許す限り集会を開いて多くの人と語り合ってきました。町や村をすみずみまでまわり、ふるさとの美しさも実感しました。一人の市民として政治、国会を見つめてきた7年間。あらためて守るべきもの、創るべきもの、そのために自分か何をするべきなのかをじっくり考えることが出来た貴重な時間だったと感じています。

再起に向けての戦い

平成12年6月、7年間の浪人生活の総決算ともいえる衆議院議員選挙を迎えました。 「あとのない選挙」そんなプレッシャーの中、厳しい12日間の戦いがスタートしました。 「みんなが自分のためにこんなに頑張ってくれている。」私は最後の力を振り絞っていました。選挙戦最終日、天候はどしゃぶりの雨の中、私と遊説隊は多くの支援者に囲まれながら別府の街を歩き最後の支援を訴えました。遊説を終えてずぶ濡れで帰ってきた私の体を後援会の皆さんが拭いてくれました。私は今回の選挙を支えてくれた皆さんに最後の挨拶をしました。みんなの心がひとつになっているのを感じました。

7年ぶりの再起を果たす

6月25日、開票日当日、別府市の選対開票本部には多くの支持者がかけつけていた。長くつらかった 7年間の想いを胸にテレビでの開票速報を見守っていました。テレビに「岩屋たけし当選確実」が流れた。沸き立つ会場はみんなの歓喜の声と涙であふれていた。自宅で待機していた私にスタッフから電話が入り、「すぐ会場に来てください」と言われました。電話の向こうから歓声が聞こえました。会場に到着した私は入り口からもみくちゃにされながらステージに到着。御礼の挨拶の後、支援者の方が作ってくれた当選祝いのくすだまを引きました。くすだまの中から出てきた垂れ幕には私の心からの感謝の気持ちを書いてくれていました。 「長い間ありがとう。」

新たなる出発

私は7年ぶりの国会に登庁しました。バッジをつけてもらい、衆議院の入り口にあるネームプレートに「岩屋 毅」の文字を見つけて「帰ってきたんだ…」という実感が湧きました。多くの仲間が温かく声をかけてくれました。「岩屋、よく帰ってきたな。またいっしょに頑張ろう」長い間、遠くから見てきた国会だが、美しく、強く、そして誇り高い日本をつくるためにもう一度この中で汗をかいていこう。私は心の中で誓いました。

外務副大臣に就任

平成19年の9月から約1年間、第1次安倍内閣で麻生太郎外務大臣の下で外務副大臣に任命されました。アフリカやヨーロッパ各国を訪問し、各国要人との会談を通じて世界情勢について意見交換を行いました。

自民党国防部会長 自民党安全保障調査会 会長

平成22年9月〜平成23年7月まで自民党国防部会長、平成24年10月からは自民党安全保障調査会の会長を務めさせていただきました。我が国の安全保障政策について多くの方々から貴重なご意見を賜りました。

自民党中央政治大 学院長

平成27年の11月より3年間、自由民主党中央政治大学院の学院長を務めさせていただきました。中央政治大学院は、党員の資質向上を図るとともに、国及び地域の将来を担うにふさわしい人材を発掘、育成するため、本党に中央政治大学院を置き、各都道府県連には地方政治学校を置くことができるものです。

国会議員事務所(秘書)インターンシップに
参加した学生の皆さんと

防衛大臣に就任

平成30年10月2日から令和元年9月11日まで防衛大臣を務めさせていただきました。僅か11か月間の大臣職ではありましたが、毎日が緊張の連続でした。国会での答弁、部隊視察、海外出張、災害への対応、各種事故への対応、北朝鮮のミサイルへの対応など、毎日のように起こる新たな課題、問題との格闘の日々でもありました。微力ではありましたが、「国の安全を確保し、国民の平和な暮らしを守る」という崇高な使命を全うすべく全力を尽くしてきたつもりです。この間、終始、ご声援を送ってくださった皆様お一人お一人に心から厚くお礼申し上げます。ありがとうございました

衆議院永年勤続25年表彰

令和3年12月の衆議院本会議にて永年勤続表彰をいただき、登壇の上、謝辞を申し上げさせていただきました。初当選から32年、途中、7年間の浪人生活を経ての25年の表彰でありました。
山あり谷ありのこの間の私の歩みを長きに亘ってお支えいただいた地元の支援者の皆様、ご指導いただいた先輩、同僚議員各位、事務所スタッフ諸君、そして家族に心よりの感謝の思いを込めてお礼を申し上げた次第です。
これをひとつの節目に、さらに新たな決意で今後に臨んでまいりたいと存じます。今後ともご指導、ご鞭撻を何卒よろしくお願い申し上げます。

石破内閣にて外務大臣に就任

令和6年10月1日、石破内閣の発足に伴い、外務大臣に就任いたしました。責任の重大さに身の引き締まる思いです。「平和を守り、国民を守り抜く外交」の実現に邁進してまいります。